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「熊谷守一の絵を見て」

  「熊谷守一の絵を見て」 だいぶ前、何年か前に銀座の街をぶらぶらして画廊に入り絵を見ていました。しばらくコレクションを見てふと特別展示がありました。 「熊谷守一」さんの展示があった。しばらく見て何やら交渉している人がいてご購入をされていた感じの人もいた。僕はまるっきり素人ぽく装い展示作品を見ていた。 声もかからなかった。僕のような若い者に買わせるようにせかすこともなくスタッフの方が軽く作品を紹介してくれた。あと、自由に観ていた。 絵は、平塗り、平坦で色の面で描かれている。切り絵のようにも見えるし、子供でも作れそうな絵である。一見ですが、しかし、私も多少は絵を描きますので、ものをモチーフをしっかり見て形の線だけで描くのはかなり訓練しないと無理だし、これをできないことを実体験で知っていますので、輪郭の線と色面で塗るのはけっこうな技量が必要なのです。 この熊谷守一の展示で花とか果物とか葉っぱとか虫とか非常にありふれた日常の観察なので、ちょっとこれは日本人向けのような、ワビサビと大胆な強い色彩、オレンジとか黄緑とか水色、わりと平坦であった。 しかし、よく作家略歴を見るとベテランでもう過去の人になっていることがわかりました。そして、日本の巨匠であられる画家であったと言うことでありました。 あと、略歴を見なければよかったなと思ってしまった。色眼鏡で、なんと言うか権威を見てわあすごいですねと言う感じで無批判に良いものだと言う感じで美術鑑賞をするのは実はつまらなくなる。だから、今、これを書いている原稿においての僕の熊谷守一のイメージはそれほど情報を入れていません。大事なのは作品であるから、作品を思い出してこうして回想しています。 権威とか名声とかそんなの絵を見る上であまり必要でない。大事なのは生の目と記憶とその作品の衝撃が残っているかどうかだと思います。 蝉は黄色い樹木にくっついている。平塗り、 これは美術史的に言うと、西洋の絵画ジャンルで言えば「ナビ派」とフォーヴィスムの後の晩年のマチスの境地が重なっている。そんなこと言って何言ってんのと読者はお思いになられると思います。 なんと言うか西洋の美術をかなり勉強しているのでないかなと思ったのです。実はフランスかどこか留学していたか日本の浮世絵に関心があってかと思う。 しかし、簡単でわかり

「ゆるく雑文で芸術談義」

  「ゆるく雑文で芸術談義」 しばらく、休んでいました。文筆についていろいろ模索することもなく、絵のことも制作をしていませんでした。それは休息をもって一種の安息日をおくっていました。 一時期なにもしないと言う空の時間は大事なものでいわゆるリセットするという意味もあります。そうして私は新しい文筆にむかえるのです。 詩はまだ書いていません。ほとんどネタが無いのが現状で自分の人生の経験からとってきて作品にしてもいいのですがそれはあまり良作でなくプライベートなことも書いちゃうのでトラブルの種になることが多いのが危険であることです。なのでプライベートは秘密にしておくのが人間関係で安全であると言えます。これは本当のことなのです。 まあ、こうした雑文においては僕のプライベートではありますが、まあまあ気楽な内容であり、僕自身の芸術観の研究がメインなのでいくらか問題はあっても少しの毒で済むのでまあまあセーフだと思います。 詩は本当はプライベートのことをネタにすると迫力が出てすごいのがポイントで空想以上な生々しさと立体感が出て作品としてはいいものができます。これは絵画においてもそうかもしれませんがリアリズムというか写実はそれだけで説得力があったりします。 私は写実的な絵画を描けませんがそれっぽく見せることはできると思います。そういう意味で、わかる形や現象を絵にするといくらかものに見えることです。 抽象画になるとわかる人にはわかるし、わからない人にはわからないのですが、なんとなく雰囲気で楽しむことができます。抽象画はさまざまな見方ができるので面白いかもしれませんね。 私も抽象画を描いたことがありますが、それでも単なる空想というか虚構をもってデタラメに描くのでなく、実際、現実の何か見えない何か、何か見えないものだけどそれを絵に構成して描くことをした経験があります。例えば自分の今の気分とか音楽を図にしてみたり、見えない可能性を絵にして表現したりします。まったくのデタラメではないですね。何かを描いてはいます。そういう意味で抽象画も現実の生活から経験から離反したものでなく、いくらか哲学的な発想をもってキャンバスに具現しているのが現状なわけです。 詩もそうですね。いくらかなんらかの事件や経験を異化しながら創作をやっていけばいくらかの生々しさも出てくる