投稿

8月, 2019の投稿を表示しています

青い木 作・ゴーギャン

こうして今日もはじまり、文章を書くことができます。今、見ている絵はポール・ゴーギャンがアルルで描かれた「青い木」オードロップゴー美術館所蔵(コペンハーゲン)を見ています。これは革新的な絵ではなかろうかと現代の人も当時の近代の人も思ったに違いない。 輪郭線はしっかり描かれてそこから自由に心の目で見た色をステンドグラスみたいに絵筆で塗っていく、またははめていく。これはクロワゾネという技法でステンドグラスの制作の時につかわれる手法である。 出来てみるとなんだかスピリチャルな雰囲気をもつ絵になっていく。深層心理からでてくる色の光なのであろうか、内面の色彩と形であり、この「青い木」はゴーギャンの精神を歌っていると言えよう。 私の師匠というか先生で甲斐光省先生がいますが、先生はゴーギャンの絵を吸収して色彩に神秘性というのを踏襲して色をつかった赤の時代、青の時代を生み出していた。そして、今は本当に総合主義になったかのようにゴーギャンをフレッシュな色彩の作品にまで昇華している先生というか画家なのであります。 神秘性をゴーギャンの絵から感じ、また、甲斐光省先生からも感じる。 そらが黄色で、黄金色にも見える空、中景では山々の影、前景では青い木とその地面、そして人物二人、いっけん日本の絵を思わせる色彩だ。そんな絵なのだ。 ゴーギャンは日本美術にも興味関心があったのだ。 色彩に神秘性を感じるのは無意識からのインスピレーションに正直であったこともあると言えます。それは、ゴーギャンは心の目で絵を描いていたという記述を読んだことがある。心に神秘性というのを体現して絵に表現していたのだった。 ゴーギャンの絵はアルル時代にほぼできあがっていた。そのごタヒチに旅立ち名画の数々を描くことになる。 筆者は悪漢であり、人にきついことも言う、そんでもって人が寄り付かない。そういういたずら好きで人としても悪人で自分で自分に悩む。どうやら、ゴーギャンもそういう悪漢であったそうだ。なので、ゴーギャンもそこまでの人物でも欠点がある。その欠点は長所にさえなる。そういうことでいい感じです。 ゴーギャンと私は似ているところがけっこうあるのを覚える。 それはいじわるなところと不実なところ、あと狂っているところである。画家っていうのはまじめで正

聖セバスティアヌス  作:ラファエロ

今日もこうして美術に関してむきあうことができることを大変に優雅なひと時を経験できることを天に感謝するものです。イタリアの全盛期、それは盛期ルネッサンス時代だ。そのとき非常に神のごとく天才の芸術家がいっぱいいた。そして、それを支える富豪もいたのだ。そんな中、近代まで美の基準となりカノンを描いた画家がいた。画家というより何だろうか、工房主で、建築やさまざまな事をやる会社というか今でいう工務店の工房主にラファエロという人がいた。今、その人の描いた「聖セバスティアヌス」板に油彩、カッラーラ美術館所蔵を観ている。その絵はどんなものか、感情をおさえた表情に優雅に矢をつまんでいる。色はクラシックないかにも古典を思わせる厳粛さ、瞳はなにか遠くを見ているようで、品があって瞑想的だ。神の象徴である後輪もあり、深い夢を思わせる。 この絵を見て思うことは静かに心のうちに入っていく聖なる感情で、日本の禅をおもわせる心のうちまで染みわたる瞑目と聖なるひと時、絵一枚でここまで宗教性を、または神秘性、それとも精神にまで影響を与えるエネルギー、エネルギーは爆破的なものでなく神秘の静謐が見いだされる神の鏡であり、その絵自体に上質なイコン、聖画になっているのである。 聖画は信仰の対象だ。それは日本における仏像のご本尊と同じなので、こういう宗教的な美術はテンプルに安置されることを目的としている。そしてそれを観て神をみるのだ。仏教でいう所の観想念仏の効果を出すのだ。キリスト教の教えをするためのつまみでありかもしれないが、この絵自体を考えるに、その宗教的な影響力のある図にも無視できないのである。ラファエロの心に神があった。そして、それを具現して美術にする感性をもちあわせていた。ラファエロの宗教的な精神が美のカノンをつくる可能性を精神に内在していたのだった。 この絵の聖人の後ろにも風景が描かれているが、これもおさえた色で青色と黄土色を混色してできた色彩である。少ない絵の具の種類で表情豊かに描けるのは、日本の山水画にも似た手法であるし、中国の古典絵画にもみられる高度な技術力がうかがわれる。 青はあまり多く使えないだろう。薄くつかっている。 実は青色は貴石から作られるゆえ、なかなか思い切って使えない事情もあるのだ。緑を作るにもアイボリーブラックとネイプルスイエローをつかっ

あんじー祭り園長 画家あんじーの作品について

あんじー祭り園長 あんじーの作品について 検索してあんじー祭りを探してみよ。そうすれば見つかる。そこには作品のたまり場がある。私は、その作品におどろく、 あんじーのクロッキー技法による絵について思考してみたい。 クロッキーは絵の下絵のように言われているばかりか、速描で記憶にとどめるために画用紙にささっと描く落書きのようなものだ。それをあんじー氏は正規の美術品として、タブローといって油絵やアクリルの完成作品のレベルまで上げるという実験をしてそれに成功した稀有な画家だと言える。 落書きのクロッキーを美術作品にまで押し上げる事に成功し、クロッキーの地位を上げたことは評価に値すると思う。 私はあんじー氏と知己な関係であり、制作している現場をみたことがある。それはとても激しいものであった。あんじーの顔がこわくなった。絵を描いている時はこわい顔して超集中していた画用紙には筆が走りまるでロックミュージックを演奏すように本気でシャウトしていた。5分くらいで一作描き上げた。雑音のように見えるが、形ができていた。まさにロックだった。 あんじー氏はクロッキーで音楽を奏でる事が目標であった。それは画用紙の中で見る音だった。視覚をとうして音を感じる事ができる作品をかなめとしていた。 スケッチ技法、これも大事だと言う。クロッキーと似ているようだ。 その二つを一つにして絵としての形をつくっている。通常クロッキーはおぼえがきのメモのような絵であるが、スケッチというわりと写生する方法をクロッキーと融合させ絵としての質を高め、さらには美術作品の形として成就するにいたっている。 スケッチは趣味の絵でご年配の人たちがたのしみで描くものであるが、あんじー氏はこれを自分の作品の要素に入れて、クロッキー技法とスケッチをあわせている。スケッチであるからには構図の取り方や絵の視点を四角形の画用紙に構成しなくてはならない。 彼の絵を描くときにやはり目が真剣だ。あんじー氏は目がいい。一度見た風景は焼き付くのだ。それで画用紙に転写し描写する。構図はちゃんとバランスと動きをもって生き生きと描き込められる。 彼に影響をあたえた画家にデュフィがある。ラウル・デュフィには音楽を感じるようだ。

マルガリタの肖像 モディリアーニの絵の感想

今日は朝から美術鑑賞をしている。それは美術館に行ってみているのでなく画集をみて楽しんでいるのである。 画集をひらくとモディリアーニの「マルゲリタの肖像」があった。甘い目をした婦人でこちらをいい目で視線を送る。作者にすごい魅力があるのかうっとりをモデルが目をむけている。そこがいい感じだ。 絵の具はあまり高価なものを使っていない。だいたいが土属性かもしれない。巨匠のように高い絵の具を使わずに絵を描く。とても贅沢なのだ。現代の画家は高い高価な絵の具を普通に変えるため色彩豊かな絵が多いかもしれない。私もお金がないころ褐色系の絵の具を使って描いていた。けっこうシックな絵を描いていた時期があった。経済的に豊かになって宝石系の貴石からできた絵の具を使いまくれる身分にまでになったが、どうしても貧乏の時か褐色系の絵の具で乗り切るものかもしれない。 モデイリアーニは最初、画家になる予定でなかった。本当は彫刻家になりたかったのだ。なので人体の構成には特別な造形スタイルのインスピレーションがあった。人体を長くしたり細くしなり不思議な形を人体に変形させるのを彫刻家の発想で作っていた。絵を描いていたのだった。 あと、モデイリアーニはイケメンで女にもてていた。恋人もすぐにできる。友人の画家のパーティーには詩の朗読したりしてかっこよかったのだろう。 彼は、イタリア系のユダヤ人であった。若いころ肺病をわずらい一生つきまとう持病となった。たばこ、酒が大好き。 作品がうまくいかないのを酒でごまかしていた。 それは誰でもあるんじゃないかな。私も仕事から帰るとまず中華まんとフライドチキンを食べながらウイスキーのロックを飲んでつかれをとっていい気分になって人生の苦しみから逃げていることもあるから、誰でも経験している弱さではなかろうかと思うよ。 モデイリアーニは彫刻家をあきらめる。肺病にわるいからだった。それで絵に集中することになった。その時に描いた作品の初期にこの「マルゲリタの肖像」があるのだ。肖像画を描くことを収入源にしていてそれで生活していた。それも極貧にかわりない。でも酒を飲む余裕もあるし貯金することもあった。 絵はいいものだ。当時のフランスのパリでは芸術がふかくかかわっていた。現代