青い木 作・ゴーギャン
こうして今日もはじまり、文章を書くことができます。今、見ている絵はポール・ゴーギャンがアルルで描かれた「青い木」オードロップゴー美術館所蔵(コペンハーゲン)を見ています。これは革新的な絵ではなかろうかと現代の人も当時の近代の人も思ったに違いない。
輪郭線はしっかり描かれてそこから自由に心の目で見た色をステンドグラスみたいに絵筆で塗っていく、またははめていく。これはクロワゾネという技法でステンドグラスの制作の時につかわれる手法である。
出来てみるとなんだかスピリチャルな雰囲気をもつ絵になっていく。深層心理からでてくる色の光なのであろうか、内面の色彩と形であり、この「青い木」はゴーギャンの精神を歌っていると言えよう。
私の師匠というか先生で甲斐光省先生がいますが、先生はゴーギャンの絵を吸収して色彩に神秘性というのを踏襲して色をつかった赤の時代、青の時代を生み出していた。そして、今は本当に総合主義になったかのようにゴーギャンをフレッシュな色彩の作品にまで昇華している先生というか画家なのであります。
神秘性をゴーギャンの絵から感じ、また、甲斐光省先生からも感じる。
そらが黄色で、黄金色にも見える空、中景では山々の影、前景では青い木とその地面、そして人物二人、いっけん日本の絵を思わせる色彩だ。そんな絵なのだ。
ゴーギャンは日本美術にも興味関心があったのだ。
色彩に神秘性を感じるのは無意識からのインスピレーションに正直であったこともあると言えます。それは、ゴーギャンは心の目で絵を描いていたという記述を読んだことがある。心に神秘性というのを体現して絵に表現していたのだった。
ゴーギャンの絵はアルル時代にほぼできあがっていた。そのごタヒチに旅立ち名画の数々を描くことになる。
筆者は悪漢であり、人にきついことも言う、そんでもって人が寄り付かない。そういういたずら好きで人としても悪人で自分で自分に悩む。どうやら、ゴーギャンもそういう悪漢であったそうだ。なので、ゴーギャンもそこまでの人物でも欠点がある。その欠点は長所にさえなる。そういうことでいい感じです。
ゴーギャンと私は似ているところがけっこうあるのを覚える。 それはいじわるなところと不実なところ、あと狂っているところである。画家っていうのはまじめで正しい人がおおいと社会的認識で考えるかもしれない、あと清貧で画業に精進しているお坊さんみたいで画伯で尊敬される人と思うかもしれないが、わたしやゴーギャンみたいのはほとんどダメな人間であることはある。とくに、わたしは狂っているが、ゴーギャンは尊敬されていてその人格まで評価され尊敬され、狂っているところはすべての人格的なものもすべて肯定されている。それはなぜか、なぜなのかというと、歴史にのこったからだし、作品も時代を越えて評価されているからだ、価値があるから、文明に対しての影響力も美術史にも大きなつよい影響があり、後世の画家たちもゴーギャンに倣って絵を描いているからだ。つまり勝ったのだ。勝つからこそ認められる。しかし、わたしは勝っていないしうだつのあがらない人間故にそのへんにいるある人としか見られない。
これが、美術史の影響力であるし、ゴーギャンの絵はそれだけの後世への影響力もあったし、美として評価されているのだ。あと、日本美術からインスピレーショにより、日本美術の再評価になりました。
あと、これはまたあとで描くことになるが、ゴッホに影響を与えて絵の教示をしたこともあろうし、ナビ派のセリジエやボナール、ドニたちの教祖であったこともあろう。その流れで現代の絵画に根源的な役割を果たしているのだ。平面的に描く、平面的な画面構成や塗り方などはそれは西洋絵画にとって革命的であった。
ゴーギャンは宗教においてもキリスト教や西洋文明にそっぽをむいて未開の島や異文化をとりいれて人間のありのままの始原にまでさかのぼり真実の美を追求していたのだ。それが大きな革命であった。
あと、ゴーギャンはインテリであり、さまざまな文学を読みまくる教養人であり、著書も出版している。今、日本で岩波文庫で「ノアノア」というゴーギャンのタヒチ時代の神秘を描いた本があるが、本を書くぐらいに高度な教養を放っていた。
もちろん、絵にもさまざまな図像学を使い、ただの絵でなく、コンテポラリーにも満ちているのだ。知的であり、それは絵画に抽象という感覚を現出して、ボードレール以来の中小観念を美術史にのこしたのだった。
はちゃめちゃでダメな男であるが、そしていじわるで不実だが、作品がよいがためにすべて尊敬になったのだ。画家は作品を描かなくてはならない。
そうでないと、ただの変質者になってしまう。その人生に正と出るか非と出るか、それは仕事次第なのかもしれない。
いい仕事をした者だけが、男としてみとめられる現実ときびしさがある。
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