新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による

 新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による



新藤義久 写真


 去年からの付き合いであろうか、よく私の出品する展覧会に来てくださり写真を撮影してくれて、その人は新藤義久氏であったこと、まだ、直接に顔を合わせたことは無い。しかし、メールでさまざまなコミュニケーションをかわす。


会ったことのない人であるが、芸術を志す思考は同じである。それが、芸術道が新藤氏と私を繋ぎとめ、道を探究している関係なのである。


新藤義久の素性はよくわからない。しかし、芸術作品によってそれを知る。その芸術作品が新藤氏の証明であり、名刺であろう。


そのメールの中で、必ず写真が添付されてくる。





一見、不気味である。それが魅力であるのであるが、とくにこの不気味さが一種の世界観がある。この写真の世界はどのように作成したか聞くとパソコンのソフトで加工しているそうだ、写真を生で撮影することも大事であるが加工にその手の加え方にも芸術的センスが要る。加工も含めての作品である。


加工の過程の中に創作の作用があるのだ。


不気味、これは素直に美しいと言うものでない。花は美しい、それは先天的に幼児にすらわかる。不気味な世界の中にも美はある。


人はどこか異世界を望んでいる。


19世紀のヨーロッパにあった象徴派の詩人や画家たちの中でも、あえて死の匂いや不気味な世界や儀式の絵や詩が広まっていた。


異界を見たいという欲望があるのは何故であろうか。非現実の中で懐かしき死の世界を見たいのかもしれない。


サラ・ベルナールという女優は棺桶をベッドにして寝ていたとかいう伝説もある。


死は故郷であることも言える。


それを望むのはなんらかの感傷かもしれないが、新藤氏の写真にもそのような雰囲気があると私は観るのだ。


人は老いていく、そこにも無常と苦しみがある。とくに女性は生老病死の他に醜という苦しみがある。醜いものには何か内容と人生の杵柄の花もあるものだ。


新藤氏の花には黄泉の世界を見てきたのではないかと言うくらいにリアル感がある。


新藤氏は夢か、イメージでこの黄泉を見ているのかもしれない。



どの写真にもあるのだ、この世界が、特に新藤氏は死を積極的に望んでいるわけでない。どこかしら輪廻転生の可能性を信じて、あの世の世界からのイメージを心のどこかで観ている可能性がある。


写真加工はただ、美しく加工するのでなく、自分の世界観を表現するアートにまで転換する技術は、その過程の中でこれらの美の可能性を表現している。

 





悲しみに濡れる涙、それを傍観する人たち、

ポジティブな悲しみ、この演劇に何を求めているのか?どこかしらに救いがあるはずだ。君はどこにいき、去っていくのか。ロシアのチェーホフの戯曲「桜の園」を想起する舞台と撮影と手を加えた世界、光はそのまま色である。人のシルエットが闇に溶け込み悲しみに暮れる女優に主役を沸き立たせている。想いの色がさっと広がっていく様が見れる。






 

苦悩に朽ちたる老人は女神にすがり苦悶する。その女神は慰みの偶像またはアイドルであろう。これもなんらかの舞台であろう。あらゆる大道具の設置と写真の撮る位置から老人の苦しみをあらわにしている。この写真にタイトルをつけるとしたら「苦悩」としてもいいと思う。苦しみに誰も助けてくれない、女神も救ってくれるか未知数、赤い背景に血の色、加工にはさらなる表現がなされている。この舞台の1シーンを感情的な色でもって演出している。


 






桜であろうか、なんらかの花見の景色?日本的なのか、どこか終わりを感じる。しかし、永遠すら感じる。光としての永遠でなく、死後の世界の永遠をこの写真から感じるのは私だけであろうか。写真は加工前は生きている桜に映ったのであろう。どこかしら、この写真には永遠を定着している。そこに表現の面白さがある。そうして生きた花を新藤義久氏のイメージに近づけようとこの永遠の黄泉に移転する。そして、私たちは永遠の世界の思い出にするのだ。演出は新藤氏によって導かれるのだった。


 







この写真のモデルは女優であろう。顔が、目がすでに演じるというゾーンに入っている。その瞬間をシャッターにおさめ遠くのストーリーをこの先、大きく展開する直前の瞬間に思う。つまり嵐の前の静けさ、その表現の爆弾が弾ける瞬間である。その瞬間にまた、美に取り憑かれそうな魅力的な一つのシーンである。


 






どこかの林、冥府への入り口にさえ思うのは私だけであろうか。この先に行けばもう帰ってこれない。そんな予感、ホラーであるのだろうか。この静けさの先を探索する誘いもあるのはこの景色の魅力なのだろう。冥府への入り口に私たちはいずれ行くし、この魅力的な静けさは生きている人が近づいてはならない禁忌がある。











ダンシングの二人、何か楽しそう。ここはどこかの舞台なのであろう。周りは人でいっぱいなのだろうか。表現はいつも恥ずかしい。真剣に演じればそれは神々への捧げものになる。一種の祭りのように見える。ダンスという芸術そのものが本来、神に捧げる奉納であるのだから、何かしらの宗教儀式を想起する。青い世界で広がっているので深く、この写真に向き合える。









これはファウスト博士のような風貌、白く死んでいる。白は、真っ白は本当に死の御姿である。背景の森もドイツの森林世界のようだ。これもなんらかの舞台であろうか、写真加工によってこのシーンがまた不思議で、何かが起こる可能性と、その沈んでいく予感すら感じる演出になっている。白い老人はまさにファウスト博士ではないかと思う。青春を懐かしみ、また、老境を受け入れてこの先も俄然と生きて表現する佇まいに見える。






























一瞬、ただ一瞬。この女優の生き様の全てが出ているようなそんな写真、加工によってさらに強調されているような、黒い世界、新藤氏はこの演出を理解して、この女優の演技をよく理解している風に思う。このシャッターもそうだし、このシーンを心に残る形で加工でありますが、心象の表現のリアリズムを描いている。











どこかの画廊の展示会であろう。また違ったポップさと親しみがある。人物はモブにも見えるし、記号になっている。人物を一つの字や全体の記号の様相になっていた。記号の中にも意味があって役割と配置における構成になっている。これもまたポップに表現されているのだと思う。








まとめ


ここまで新藤義久氏の写真を観てきました。いわゆる普通のスナップ写真や記念写真とは違い、アートな写真を観させていただきました。表現、加工、シャッターの一瞬、記号表現、私たちは観てきました。


まだ、新藤義久氏に会ったことはありませんが、メールのやりとりや私の展示の作品の写真を撮ってくれてまた加工してくれたりなど、間接的な関係があります。




私の先生である河口聖氏は芸術家は日本はもとより世界で連帯しているとおっしゃっていました。私たちは全体で、それぞれが作品を創作し、発表し、鑑賞者の方々があり、世界で文化を作っていると思います。


新藤義久氏も私、本多裕樹もお互いに芸術の道を求めて探究し、時代を作っていく仲間であると信じています。




ここまで読んでくださり感謝します。


ありがとうございます。




令和6年5月25日 本多裕樹 記

 

ギャラリーK     絵画の方向 作・本多裕樹 写真:新藤義久

墨遊会展 (国立新美術館) 作・本多裕樹  写真:新藤義久



 

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