𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。 2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

 




𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。

2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

会期中無休




旅をしていた、電車にゆられてわくわくしながら、時の静かな朝の銀座を歩き行き、NGG 中野銀座ギャラリーを探したどり着く。11時に開廊でそのまま入り、いきなり作品に向き合う。早や受ける印象を自らの目に刻みつつじっと観た。






少年のような、若い男であろう。黒く、漆黒の色、ウルトラマリンとバートアンバーを混色した輝くブラックでしまった画面、人物の眸が何かを伝えるように対峙した。

    




少年、


陰るところが無く、何か希望にも似た明るい可能性が鑑賞者の心に伝わってくる。格調高く品のある絵だ。そして、何やら音楽の色もある。色彩が日本の作家の色感ではなくむしろ外国の、北欧でありアメリカ現代美術の色に近いセンスを感じる。




日本人の色感ではない。


目が語りかけてくる。視点が様々な方向に進むこともあるが、第一に目が語りかけてくる。






日々、毎日、毎日、芸術に向き合っているむき出しのメンタルで真摯に描かれている。それは後期印象派のオランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホを想起させる真剣さがある。




芸術に真剣さがある。それは凄まじく伝わってくる。私のような中年にエネルギーを注入させられるように、力が覚醒する。そういうマテリアルだと感じた。


少年、それは自由で遊び、道に遊び、歌を唄いその無限にも広がる空を自由に真剣に飛翔し、自分の世界を創造していく爆発的な力と開放、心の業を開放し、キャンバスに表現していく。それが自由となり少年性があるのだ。


芸術家は誰でも子供だ。自由を愛し、自分の芸術に真摯に無心になり闘い、世界を征服していくくらいのスタミナを線に、デッサンに描き進める。


タバコを吸う少年は自由と芸術を愛す。


瞳はさまざまな複雑なものを表現している。残像化された形象にあらゆる世界を見ている多次元性の目で、描き見る。






音楽家に𣘺本氏は共感し、自らにロックミュージシャンを当てはめてロックの熱狂を自らにライドしているのがこれらの絵を観て感じとるに私はいたった。


これらの絵を観ていると、ロックミュージックの感覚が思考に入ってくる。その感覚が伝わって、その図の中から音楽の殿堂を覚える。小学校、中学校の音楽室に展示されているクラシック音楽の作曲家たちの肖像のようにある伝説性を醸し出してくれる。そのような美術館、殿堂を展示から感じるのだ。


それは𣘺本氏が音楽を愛し、音楽の感性を絵に、またはデッサンに塗りこめている念が入っているからだ。





絵を観て、その図たちは破壊していない。しかし、内的に広がりがある。思想性が感じられ、音楽によって伝わる衝撃が音と図によって目で𣘺本氏の思いを届け、また叫んでいるかのようだ。そして、品位があり、荒れていない。ギリギリのところ、橋渡りのように、ニーチェの思想のごとく超人の態度で絵に実存をもって道を歩んでいる。





描いているのだった。


愛惜の限り、音楽の道を極めようと進んだ音楽夫妻は、素晴らしいロックを演奏し支え合う。女性は男性の破綻を支え、音楽にロックに殉教している図に悲劇と美を放っている。そうして二人は絶望的か快楽の中、天空に逝き、ロックの神話になっていく。色が、色彩がそれを宥めるように、優しく描いて、涙の中、共感の中、描き切っている。このような絵を描き切るのは大変だと思う、最後まで手を加えて感情を塗っていく。



意思力が要る。


𣘺本悠の絵画作品は基本、完成度が高い。しっかり描いている。


𣘺本氏は黄色がよく出てくる。黄色は使う人によってだいぶイメージが違ってくるが、𣘺本氏の黄色はギリギリのところで病的で無いのだ。あと、青色はセンスを盛り上げている。


どこかに、死がある。死を意識しているのか、死と真剣に向き合った経験があるのでは、それは後ろ向きな死の向き合い方でなく、目の前にある死に立ち向かって芸術でもって死と闘い、死を友達にしているかのように思える。






人物画をモデル無しで描くものがあった。𣘺本氏が自ら創造した、クリエイトしたモデルがない名も無い人物画が何点かあった。そうした絵も何か不思議な感覚があった。𣘺本氏のイメージと心の質があった。また、別の感覚があった。健康的な色彩で、健康的な雰囲気さえ感じた。私はそう思った。モデルがはっきりしている絵はその人物に共感し、意識に映るのだろう。そうやって音楽作品からもライドして絵筆を握るのだと思った。そういう意味で肖像画家としての才覚を使ってアートを描いている様子であった。






黒い作品に、


現代美術作家フランシス・ベーコン。ピカソ、ブラックの開発した多次元絵画キュービスムを使ったこの四点に深い瞑想を感ずる。どこまでも深みに落ちる仏教に通づる何かを感じた。それは、目に見えない、普段、私たちが見ることができない人物の見方がこの図に観られる。


どこまでも見ても絶望を感じる。


悩み抜いた作品だ。


普通の人生を歩んだ者では描けない図だ。芸術家は独自の目を持っているが、この絵は内省的で、内向の深みと外へ押し出す表現をしている。


普通の人でも、この黒いアンニュイの真剣さのある力ある絶望の絵を観て時々、人間の内省を考える機会が与えられるのではないだろうか。これは会社を経営している人などは大事かもしれない。人間の深みを知らなければ認識力が広がらないから、絶望を知らないとそういう人間心理を理解できないと思うからだ。


人のことを知らなければ世界の判断も痛みもわからない。そうやって社会に貢献していける。




この絵を観て、本当に死の絵なっていった。一見、何年か前に国立西洋美術館で開催された「ホドラー展」を思い出した。象徴主義の絵を𣘺本氏は描いた。神話を描くにいたったのだ。人間の根源にやはり誰もが避けられない「死」、それを見事に描く。仏教の開祖ゴータマ・シッタルータの死に重ねられる。どこか、絶望の果てに安らかな死がある。その死にさまざまな思い出の破片がつなぎ組み立てられる。𣘺本氏は真剣に死と向き合っていた。そして、その死から悟りを開こうとしているかもしれない。涅槃を描いているということを、





抽象画の連作は正直、面白かった。


アメリカ現代美術な色で制作された瞑想的な絵は、𣘺本氏によれば絵の背景だったりパズルのような、破片のような、組み合わせて作品を作るための部品であると言う。そういえば絵の部分部分にその抽象画が当てがわれていた。そう、氏は説明してくれた。





最後に、


とても、考える材料を与えてくれる展覧会であった。𣘺本悠氏の絵をこうして個展という形で鑑賞できて、とても、なんというか哲学的であったと思った。なかなか思想性をストレートに表現しきった絵画展は稀有なことだと思う。この感覚は私が小学校の頃に観た「山田かまち」のアート作品群を見た感動がフラッシュバックしてきた。音楽性がやはり、ストレートの表現になっていくと思いました。






𣘺本悠 個展  beyoud,diamond

2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

会期中無休








令和6年3月24日 本多裕樹 記





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