ビエンナーレについて考えをしている。自主考察


今、昼であります。昼には酒を飲みません。でも、酔えるものです。それは何?

なにかに懸命にやっていると自然に酔ってくる。仕事も乗ってくるのですね。その乗るっていう状態が仕事のパワーになっていきます。それは絵画制作でも同じかもしれません。

今日は絵のことを考えたかというと、抽象画の世界を見ていた。抽象画を描くようになって具象画があまり描けなくなった。なんというか抽象画にはまってしまったといってもいいかもしれない。

一度、具象画の作家でも抽象画に移行するとその魅力にみせられてしまい、具象画を描かなくなる。しかし、私の場合は具象画はそんなすごくうまいわけではないがそこそこよく見えると言ってもいい。
この前の展覧会では具象が二点売れました。山の絵と海の絵の二点です。そのほかのにも抽象画を二出品しましたが売れなかった。でも、満足のいく作品であったことはいえます。

抽象画は売れるか。はい、売れます。

そういう絵が好きな人もいて、売れたりします。

シュールレアリズムの絵も売れたことがあった。

何かな奇怪なもの、不思議な世界の、観念世界が好きな人もういることは事実です。そういう変わった絵の好きな人もいる。

まあ、そういう意味で、アートは自由でいいんじゃないかなと思っている今日この頃です。

あの、ビエンナーレの件にいたってもいろんな側面からみえますね。御法度になったり美的な価値があったり、不謹慎だとか、少女の彫刻が美しかったり、ふくざつな気持ちになる美術作品であったと思います。まあ、美術館に展示されている以上、そういう美術の殿堂に展示されているので美術作品という定義で箱に入っているから本来的には政治的、国際的な世界から離れた美の神殿にいることですからね。まあ、美術作品として見て、その美術館の作品にはいろんな内容があるかもしれない。ざわざわするようなものもあるが、そこは神殿内でいろんなことはあるが、美術館の中にあればそこに展示中であっても政府とか国家が口出せない領域、聖域があると思うので、まあ、美術館という神殿はそれとして人々は礼拝しているわけです。政治が国家があれこれ言うのは本来は踏み入ってはならないところであると思うのです。

美術館という殿堂にやはり敬意をはらう必要はわれわれはあると思います。

人間の脳みそに誰かはいって困るし、入ったらその脳みその世界で生きなくてはならない。

ちょっと国家論的な事を書いてみましたが、ルールの中にまたそのコミュニティーがあってそこにもルールがある。少々ややこしいものです。

美術館にはいったらその作品をみればいい。それで感ずるところあればその人の教養になる。

そこは、またオークションハウスとは違うかもしれない。

美術館という施設の意味についてもこれからも思考していきたいですね。

まあ、これは私も美術作品を制作して発表しているわけですが、生涯で出品停止になるような衝撃的な事件になるような作品は無いですね。でも、ちょっとでも時代がたがえば魔女狩りにあってしまうようなものを作ってはいます。

まあ、こわいですよね。

それくらいの覚悟をもって作品をつくり発表する。

それが美術でなくても思想の世界でも、科学の世界でもそうかもしれませんね。
科学なんかも、大変だったと思うよ。コペルニクスとかケプラーとかガリレオは命がけで発表したと思います。そのお陰で中世の暗闇を明るく照らしたという事実があるわけです。

美術もあんがいそういうところがあると思います。

新時代の光明のために…。

西暦2019年10月30日しるす

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