ピカソがピカソの絵を描く名画「アビニョンの娘たち」前夜 著・本多裕樹


夏のはじまりによく美術鑑賞をする。過去のあの作品の事を思い出すのだ、それはピカソの思い出である。わたしはピカソの存命中に直接会った事はないが、伝説としてピカソの名は世界中で知れわたっている。ピカソは画家の代表格であり、死してなお芸術家の象徴のように思われている。そんなピカソも若いころは絵も売れず食うにも困った時期があった。ピカソは友人もたくさんいてみんなで助け合っていた。そんななかピカソは革命的な作品の構想を考えていた。当時ピカソが住んでいた場所はフランスの首都パリであって第一次世界大戦前の栄えた雰囲気のカフェのたちならび芸術家、詩人、建築家、画家、音楽家、法律家、学生などがたむろしていた。当時、ピカソはパリ万国博覧会に足げなく通い新芸術、あたらしい美を異国の文化から吸収しようとした。この時代においてトップのアーティストとして君臨していたのは、モネ、ルノワールと言った画家たちであり新芸術を創始した者たちだった。彼らは日本の美術に強い関心をいだきそれを真似して自身の絵に吸収し体得して新しい西洋画というのを発明したのだった。ピカソも新芸術を夢見て、新しい絵画を夢見て新しい発想を探していたのだった。印象派と呼ばれるモネ、ルノワールの後にセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホが出現した。彼らは印象派を基礎に一歩芸術の新展開に引き上げた画家たちで後期印象派、またはポスト印象派と後世に言われた。ピカソもゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの絵を購入してコレクションにして勉強していた。そこからヒントを得てそれを真似て作品つくりをしていたのだった。そうしてパリ万国博覧会に行き異国のアニミズム、純粋な人間の生のアートを求めていた。そして、アフリカの神像や神器にであった。それは生々しく魔術的であった。それに強くひかれた。仮面や偶像に、それらの神器に強いインスピレーションを受けそれを心に吸収した。何度も足げなくパリ万国井博覧会に足をはこんだ。家に帰ればアフリカのアートを思い出しキャンバスに試行して描いた。習作をたくさん描きアフリカ芸術を絵で、または肌でも心でも自らに憑依させ描いた。そうすると不思議で革新的な絵が次々と出てくる。

                              
それまでのピカソの絵画は、いたってわかりやすい絵であった。誰もがわかるような人物や静物、花など描いていました。出身地のスペインからフランスの芸術家の集まるパリに移住し活動をはじめて、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックの絵を観て影響を受け初期においてほぼ貧民に近い状態で絵を描き、精進していた。そこでピカソの絵を開発した。その最初のスタイルは青い絵を描いた。悲しみと憂いと貧者の美を描き個展を開くくらいオリジナルに満ちていた。じっさい個展を開いたが一枚も売れなかったと言う出だしだったが、すこしずつピカソの青い絵のスタイルが売れるようになった。この時代は青の時代と言われた。悲しく憂いがあり貧乏で仕方ない、スペインから一緒に来た親友がピストルで自殺したのが大きかった。それを引きずって美を発現していたのだった。ピカソの絵には人生が塗り込まれているのであった。あと、お金が無かった。でも生きて行かなくてはならない。貧者の気持ちを理解できたのだ。自分の身をもって。
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キュピスム、立体主義。
絵は二次元であり平面に絵を描く、平面世界に立体をもりこむ、いろんな角度から絵を見て、またはモチーフをいろんな視点で見て構成していく。そうなるとぐちゃぐちゃの絵になる。そしてなおかつ美への挑戦、今まで美しいとされていたもの、常識をこえて新しい美を発見するたびにおいて新境地を創造する、そこに時代の分岐点なる美の革命がおきたのだ。
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ピカソは青の時代といういわゆるまっとうな絵を描いていた時期がある。そのことについては前に述べましたが、だんだん気持ちが明るくなってきて赤を多様につかうようになり、ピエロ、娼婦、社会的底辺の人たちを描いていた青の時代からすこし美しい赤色つかうようになった。それでもモチーフとして変わらないのはピエロであった。ピエロというのはサーカスの演劇でのお笑い芸人であり、おもての顔では笑っていて、うらの心では泣いているというボヘミアンの姿、流浪の民の姿で人々を笑わしながら泣いているそういう芸人である。ピカはそこに自己照応をして自分を投影していたのだった。
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ピカソは売れない画家だった。そして極貧であった。他の芸術家たちがそうであったように。
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青の時代において悲しみと貧困でいっぱいだったが情緒的で感傷的なドストエフスキーの小説のような底辺社会の生活をなめた。もう、失うものもないそんな状況が挑戦と絵画によるトライが養われた。貧乏、極貧が将来の画家ピカソここにありという発展の出発であった。極貧は乗り越えるべき壁であり運命であった。そして芸術生活においても数々の工夫やチャレンジの源泉となったのだ。
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ピカソには友人たちがいた。励まされたり、励ましたりして、貧乏生活を送っていた。そして熱心で絵を描きまくっていた。恋もした、遊びもし、酒を飲み夜の宴をすごす、芸術論は好まなかったそうだが他の人の話を聞くのは好きだった。享楽の遊びをすごす、そうやって人生に潤いをしたたらせて芸術の糧としていた。または、絵画の肥やしにしていた。
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アンリ・マチス、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランたちよる野獣派が出現した。マチスとはお互いを高めあう間柄になった。
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ピカソはまだ、センセーショナル前、モディリアニなどと酒を酌み交わす。
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詩人アポリネールに影響を受ける。彼はその当時の芸壇をリードするリーダーだった。ピカソはアポリネールと親友になる。アポリネールは女流画家マリー・ローランサンと恋仲になる。ピカソの心の中に焦りが出て来る。
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ある時、古道具屋で絵を買う。安い絵であった。しかし、ものすごい絵であるとピカソは感じた。衝撃的でもあったその絵の作者はアンリ・ルソーという素人画家であったがものすごい強烈なものを感じた。
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アフリカ美術、エジプトの古代遺跡にある美術を見て衝撃を受ける。さっそくそれを自分の絵に吸収して作品を制作、これがなかなか衝撃を感じ、習作をつづける。今までの古典的な表現を捨てる。新芸術を開こうとしていた。
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後期印象派の画家ポール・セザンヌの絵を買う。セザンヌブームが起こる。ピカソはセザンヌにも衝撃を受け自分の絵に吸収、再現する。
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ピカソは多くの詩人、画家、まわりの仲間のあらゆる話や東方の文化、遺跡、美術を吸収し自分の作品を発見する材料を集め自分のものにしていく。決定的なのが後期印象派の画家セザンヌで道を開くことになる。
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セザンヌは絵の中に平面という認識でなくそのキャンバスの画面に空間を作って行く、絵の中に円錐、円柱、円筒、と三つの幾何学の形を絵の中で構成して風景画や静物画を描く、そうして絵の奥行に前景、中景、後景と分けて構成していくやり方で、きわめて知的に構成して立体的に絵作りをしていく方法で絵を描く。それにピカソはヒントを得て自分の作品に再現、構成していく描き方をする。
                              
ピカソはエジプトやアフリカの原始美術、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどの後期印象派呼ばれるアートの世界をリードしている作品を吸収して制作を数かさねる。だんだんできてくる新境地の美、今までの常識的な作風の青青の時代、バラ色の時代を放棄してでも
あたらしい作風にシフトしていく。多角的にモチーフを分解したり、古代の生命の躍動を自らの心にいれ、そしてやってくる無尽蔵のインスピレーションから「アビニョンの娘たち」という大作に挑み制作する。いたって野生的であり知的である気の狂った破壊的な絵となった。人物を多面的に構成し画面も意図的に構成し作って行く。神がかった美が出来てしまったのだ。これを完成させたとき、友人のドランやマチス、ジョルジュ・ブラックに見せたところピカソ君は呪われて死ぬだろうとか、美への反逆だの言われた。こうしてピカソの代表作「アビニョンの娘たち」は展覧会に発表されセンセーショナルと美の認識が狂い変わって行ったのだった。
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美は、常識的なものもある。しかし、すこし次元が違ってきたり精神的な可能性を込めるとこれがよくわからなくなってくる。美は常識の中には見出せないこともある。常識のマトリックスに生きるのもいい。しかし、たまには芸術家の作る絵を見て普段感じられない美の探求者の作品を観て心を高め、たのしむ時間をつくられたら、海外旅行のように新しい体験があるかもしれません。そういう意味で美術というのはあたらしい発見をもたらしてくれると思います。ここまで読んでくださり感謝します。では、


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