山内絵里個展 2025年2月3日(月曜日)~8日(土曜日) Galler K 東京都中央区京橋ポイントビル4F にて 展評:本多裕樹
山内絵里個展
2025年2月3日(月曜日)~8日(土曜日)
Galler K
東京都中央区京橋ポイントビル4F にて
或る日のこと、昨日であったか。本当は金曜日に行く予定だった展覧会、疲れていたので先延ばしで翌日の朝、健康で爽快な状態で京橋の画廊、ギャラリイKに入った。
今日は山内絵里女史の展示を見に行くためだった。事前情報は知らない。一度、思想家の宮田徹也氏の邸宅で花見がありそこで知り合い覚えて下さった知縁である。その微かな思い出の中で、春の庭園で桜の木を描いていた山内女史、その描いていた絵を私も手を加え表現主義風に描き変えて、違った次元を展開した思い出、それから連絡があり、あの時の女史だというメールの一文に是非、個展に作品を観て欲しいとの案内が来た。金曜日の労働の後行こうと考えていたが、さすがに疲労に耐えられなかった。その翌日の土曜日の最終日、健康な状態で展示を見た。
京橋ポイントビルにたどり着きエレベーターで4階まで上る。無心の状態で、・・・。画廊に入る前に芳名帳があり自分の名前と住所を書き記す。
門をくぐり扉を開ける。
明るい照明、私はすぐ展示の第一番目に出くわす。しばらく眺める。一見、内容がおぞましく思った。ココシュカやシーレのような激しさと表現主義を一番に出している。
それに芸術家の業(カルマ)を感じた。衝撃的であった。だんだん見ていると人間の姿が見えてきたりエネルギーのイデアマテリアルが現出して描かれ筆の運びが情感を吐き出しているような制作における必死さが見える。
美術は美しいものを作る技術だと言われているが、今は、現代では個人的な美、哲学的に言えば実存であろうか。表現主義における実存であるが、この一点の作品にあらゆる内容が具象で形を成している。
魚は象徴的な意味、図像学的な意味でイエス・キリストを象徴している。それは内在された無意識から描かれる。全体を眺めて様々な箇所に人の顔であったり、人物、女性の姿形が浮かぶ。心理学的な可能性をここに打つけ、塗り込めている。作者は意識していないかもしれないが、無意識で描いているのだろう。この一点で生命の、命の輝きと生きる意思を感ずる。生きようとしている。前向きに、この絵は作者の思いを全力でぶつけ描き出しているが、天啓のように筆をオートマティックにつまり自動書記のごとく筆を動かしている衝撃を感じた。
この絵は明暗が二分しながらも、女史は黒や暗い絵の具の使い方が練達された名人技ゆえに画面全体が調和され破綻することが無い。高い色感の才能を煌かせている。
この一点の作品をを良く見て生と死のなかで生きることに中庸の状態を保ったポジティブな精神の方だと感じました。
また、次の作品を見てみましょう。
これは巨大な作品である。ピカソのゲルニカのような巨大さである。しかし、この絵に重大な思想が込められている。実に衝撃的である。この展覧会はサブタイトルでカルデラらしい、カルデラとは火山が今にも噴火する直前の状態のようだ。画家はこの展覧会で噴火した。そこには絵だけでなく思想、哲学、神話も吹き出したのだ。
一際、目立つのが真ん中であろう。女神が出産した子供を守りその上に女性が生命の苦悶を、または生きることの不安定なアトラスをもって木を支えている。木は神聖なものである。生命の樹は死をも司っている様子が象徴され、樹の下に死者が2人黄泉の苦しみに浄化し、煉獄を表している。それから死の業が浄化されたのだろう死の炎に慣れて右側の黄泉の世界に一体化していこうというストーリーが現れる。
さて、左側には太陽が描かれている。それは生命の源であり、宇宙の始まりを象徴し、太陽に向かう神話的なプロメテウスが天に登ろうとしているが、そこには行けない。人は天に上ることが出来ないというバベルの塔を象徴しているのであろうか。人が地上に産まれるためには母体から出なくては行けないのだろう。中央の女神から全てが下生するというシナリオ、または運命が描かれている。太陽は生命の源で死者の魂をまた大地に誕生させる。この巨大な絵画は生と死、聖と大地を象徴しているのが読み取れる。また、母性におけるすべては母から生まれるという生命の神秘をこの図に思いを込めたのだろうと観て感じました。
次を見てみましょう。
これは顔であろうか。一見、龍のようでもある。しかし、これまでの作品の文脈から人物かもしれない。これもまた絵の具を絞り出しエモーショナルに感情に訴えかけるようにエネルギーを噴火させている。人物が二人いる。なんだか仲良しに見える。そして、平和的にさえ見える。
なぜか
優しい顔をしている。そして、パワーを宿し青い色が冷静さが
私たちに向かって笑顔を投げかけている気がする。
絵はただ描くだけでなく、作者の気持ちを、感情を、表情を絵で描いている。のっぺらぼうの古典的な絵でなく、自分の気持ちをそのまま描いているところに新しい時代の自由がある気がします。画家の気持ちをそのまま出して自分に正直になる。しかも、前向きな心、生と死を認めながら、運命に前向きに進んでいく人生に表現主義のライトサイドがあることを知りました。
これからの時代は新しい感情が大事だし、抑えられた社会において正直な感情や感性は大事だ。それは、芸術だけの自由だけでなく社会の、またあらゆる共同体、国において素直な感情の発露は大事だと思う。この世界にはまだ知られていない感情や感性がまだまだあるでありましょう。それを芸術家だけでなく様々な人が表現することで世界は自由になっていくと信じます。
そういう意味で現代で必要とされる感性であると思います。
カルデラは隠された感情の噴火であり表現であったということを山内女史は表現したのだ。
次の作品にいきましょう。
顔でありましょう。大人の顔ではない。子供の顔である。これまでの作品の文脈で、母的な巨大な神話の大作があった。
これは子供だ。
様々な表情、怒っている。見つめ、逍遥して、いる。
こういう表情もあるのだと思った。女史は人の顔をよく見ている。人間に強い関心があり、人のあらゆる顔の表情を観察し、感情を理解しようとしている。
つまり、愛がある。
どんな姿の人間も愛そうとしている。優しい方なんだなと感じた。
能面でない生の顔を描いた。
そして、人生の運命を肯定し前向きに生きて、立ち上がる。
たとえ、死があっても、生きても、受け入れて壮大なストーリーの中で真摯に生きている芸術家なのだった。
さて、朝一番で来廊し、ゆっくり作品も楽しめた。ぽつぽつ鑑賞者の方々もやってきました。30分くらいのプライベートタイムでありました。画廊主に挨拶して、ビルを出てまた旅へ、
令和7年2月9日 本多裕樹 記
山内絵里個展
2025年2月3日(月曜日)~8日(土曜日)
Galler K
東京都中央区京橋ポイントビル4F
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