芸術もまた価値観であり宗教的可能性をもっている


絵を習うって喧嘩になる事がある。作家同士かならずその芸術性に対立してトラブルになる。どちらかがおさえなくてはならない。どちらかが無にならなければならないのだ。

芸術はそれぞれたくさんの人がいるがそのたくさんの人がそれぞれ宗教的な信念をもってそれは芸術という宗教であり、個人個人がもっている芸術という価値観でケンカする。闘争するだろう。

だから危ない。かならず喧嘩する。それも個性の強い芸術家はね。

わたしは昨日、手紙をもらった。それはあなたにアートを教えます。あなたに裸婦デッサン会に参加してほしい、そして、わたしの傘下にはいりなさい。弟子になりなさい。指導してあげます。あなたの絵はマチスに似ています。マチスの画集を見せてあげます。それで感動して、そのような絵を描いてみませんか。

という失礼な手紙をいただいた。でも、その人はわたしを初心者の画家と思われている。画家でなく、趣味でやっているふらふらした絵描きさん、まあ、怒ります。しかたないかもしれない、その程度の絵しか見せられなかった私の責任だ。そんな傲慢な手紙に、傲慢な私が受け取るのだから怒りがこみあげてくるわけです。

しかし、これはチャンスと思っています。普通の人に見えると言う事は普通になるチャンスであることは言えると思います。私は自分ではものすごい価値を認識している。それが傲慢の原因であるが、一度市井の人になることも大事なのではないかと思いますよ。

というわけで、デッサン会には参加するかもしれません。でも、他に予定がありますので第一回目は断る可能性は大であります。

でも、なぜ今さら裸婦なのだろうか。女性が生まれたままの姿になってその周りに絵を描く人たちがいてなんか絵を描く。ちょっと理解できない。確かに私も美術学校時代にはそんなことはあった。でも、なぜ現代アートが美術の主流になっているこの時代にわざわざ裸婦なのかちょっと理解できないところもあります。

私に友人に裸婦を描いている人がいますが、それはトレーニングでやっているそうだ、なぜそこまで裸婦を描き続けるかちょっと理解できないところがあったりします。裸婦は美しいのか?なぜ、裸婦、なぜ、そんな問題だ。

裸婦、これは絵画の伝統らしい、しかし、意味があるのか、ないのか。

多分、意味は無いのだろう。セクシャルな意味はあるのか。そうかもしれない。

でも、なぜ、裸婦を一生懸命になって描くか。見たものを描くか。わたしはかなりつまらなく思う。かなりつまらない。つまらないけど描くのが修行なのだろう。どうでもいい裸婦を描いていろいろ指摘されいじめられる。講師はそれでサディストになれる瞬間だ。それがおもしろいのかもそれない。

裸婦デッサン教室そのものがインスタレーション作品なのかもしれない。そう思いました。それなら理解できる。実は、私は人からものを教わるのが苦手なのでそういうストレスを作品にできるかもと思った。それは発見だ。

お前(私)は絵が好きなのか。僕は好きなのか絵を、・・・。それより面白いことを発見してしまったのではないか?

映画、カラオケ、雑談、さまざま


絵より面白いものがあるのではないか。そうかもしれない。絵は何のために描くのか。それもちょっとわからない。つまり僕は絵が好きでない。ていうか燃え尽きてしまっている感じはある。それで苦しく思う。本当は絵を描きたくない。それが答えだ。絵が飽きた。それも言える。

そんな感じだから、それでも描いている自分を誉めてあげよう。
かつて、むかしむかしは絵が好きで好きでしょうがなかった。でも、描きすぎて飽きた。
しかし、それでも描いている。文化活動のために、
裸婦デッサン会も趣味で行ってみよう。ストレスになったらやめればいい。それだけのことだ。

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