詩作について書いてみました。


詩を書くのはしんどい、では、なぜ書くか。ほかにやることが無いからかな。そうだね、そうかもしれない。詩を書く人は大変だと思うよ。

詩は気が狂うから大変だね。あまりおすすめしないな。

オーソドックスな詩は書いてきたので、そろそろ現代詩をやってみようかな。

詩はだいぶ高校生の時に短歌をつくったところからはじまった。

その一首が始まりだったと思います。19歳の時にまた夕日を見てそれを写実的に書いた詩が皮切りであったのか。それともジャン・コクトーの詩集を読み、自分でもやってみようと思ったのか諸説あるが若いころから趣味で書いてきた経緯があったのだ。

まともな詩を書けるようになるまで、ずいぶん時間はかならなかった。なぜかね。

それはなぜか、基本、読書したり文章を書くのが好きだったからなんか書けるようになっちゃったのだ。あと、反道徳の思想もわたしにはあって、それがなんか美学の支柱になってしまったこともあります。基本、僕自身の人間解放であったのかもしれない。

反道徳の思想はキリスト教会への反発もあったであろう。わたしはむかしクリスチャンであり洗礼も受けていた。そういう者であったが、キリスト教会を去って行ったのだ。芸術に改宗したと言えましょうか。

有害図書もけっこう読んだのか。そういうのもあったな。

僕の好きだった小説で太宰文学があったけど、それ読んでポーズを決め込んだこともあった。

今は、いたってニュートラルな感じです。昔は昔で狂った人生を生きていたのだった。どうしよもない不良青年だったから、本当にどうしよもない人間だったんだ。

羊の皮をかぶった魔物であったことは言えると思います。

詩は書けばいい。でも、書ける人は奇跡の人だ。書かれた詩はどんなものでもすばらしいものなのだ。

友人の詩人がいろいろ原稿をためている。それを読ましてもらったけど、すごい業に満ちていて悩んでいてTHE詩人と言えるくらい詩人らしい詩人だった。そして、美しい旋律の文章を書き綴っている。それは素敵なものだった。

私は旅を時々する。毎年、京都に行っていたこともあった。一人で電車に乗って新幹線でビールと押し鮨を食べて向かう、その時に考える。京都の文化の叡知をね。歴史好きにはたまらない。でも、いかなくなった。今は、休日にコーヒーを飲みまくって頭をくらくらさせて詩を書くのがなぜか第一義となっている。絵も描いているが、絵の方は毎日少しずつすすめれば完成する。

詩が無尽蔵に出て来る夢のような時代もあった。その時が懐かしい。なにか必死だったのか。そうなのか。

自分は何が好きなのだろうか。好きな事があまりなくなったので、また京都に行ってみるか。なにか変わるかもしれない。旅も大事なのかもしれない。気分転換、気持ちを入れ替える。そう言う意味で慰安旅行なのか、精神の清めなのかもしれない。一人で行くのがいい。一人の方が気軽でいいんだよね。

書くのはなかなか時間がかかる、この一行を書くのに何分思考しているのだろうか、やっとの一行。

遅筆であっても書き上げるのが大事かもしれない。意地でもやるっていうのは無理しているのか、というか文を書いたり、詩を書くってものすごい脳の力を使っているのではないかな。最近は薬用養命酒を飲んだり、亜鉛を飲んだり、健康のことに気を使っている。

詩のいいところはロマンを描けることだ。その夢を見させるような詩の言葉が美となり、感情をかき乱したり、狂わせたり、その中に感情の衝撃が出てきたりするのだ。僕はとくに薬とか使ってドーピングはしませんがコーヒーはやっているかもしれない。酒飲みながらは詩を書きませんね。コーヒーで脳を興奮させて詩を書き綴っていきます。そんな、詩作についてのことです。

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