文筆はけっこうたいへんだな。そう感じました。
なにか問題のある人は幸せかもしれない。それを解こうと必死になって表現したり、必死になる。知能も繰り出して、懸命になれる。
若い人はその情熱でもってなにか人生を変えていける力を放射する。それはものすごいエネルギーだ。
タイピングが重い。
進まない。
でも、演奏しきるつもり、キーボードってピアノみたいな気がします。演奏しているんだね、言葉という音色を奏でているのだね。
川端康成っていう小説家がむかしいたのだけど、あの人は原稿用紙に一日一行進めばそれで喜んでいたそうだ。それで友人の小説家、横山利一に電話して「今日一行だけど進んだ」って話して横山利一もそこそこ進んだとかで喜んでいた。
たしかに、川端先生のような質の高い文章を一行進むのはすごいことだ。僕では川端さんの一行におよばないのは明確だし、わかる。
もう、やり終えたのか。僕の人生の課題。
文において何か書くことがなくなっている。でも、書くけどね。すごい思想とか出せない。
ひらめき、そんなもの、若いころは天才であっても二〇歳過ぎればただの人っていう言葉があるけど、それかもしれない。いわゆる文章を書く人として燃え尽きてしまったのだろう。書きたいことは書いてしまった。それでかなりすっきりしている。
あとはゆったりたのしんで文筆の趣味を続けていけばいいんだね。そんな気もするよ。
明日は映画でも行こうかな。映画はいいよね。まっくらな空間でゆっくりすわって目の前のスクリーンを見てゆったりできるから。寝てもいいのだからさ。
演劇とかはハラハラするけど、映画はもう失敗と無いから安心して観れる。
演劇はハラハラするところがあっても上手く乗り切る役者の演技技術があるからいいのかもしれない。舞台には華もあるし、緊張感もある。茶飲みながらは見れない。真剣に、真摯に舞台をみるからいいのか。
映画はゆったりできるからいい。
すっきりもする。
疲れもとれる。
私は文筆家に向かない。プロでやっている人は化け物だ。すごい執筆量だ。そのようになれない。一日で二万字も書く人もいる。僕なんかは休日に一時間三〇分PCに向き合うだけで限界だ。あと、平日であれば一五分くらいのルーチンの文筆だけだ。
とても文章の仕事できるレベルじゃない。プロはやはりすごいし化け物だ。
本屋にある本の作者たちは天才なんだ。それはそれでいい。プロというのは化け物だ。
それがわかっただけでもいいということだ。
趣味でやっている僕はそう感じたよ。水をすこしずつすする。
川端康成先生にしてもあれだけの名著を書きつづける裏舞台では執筆でつまずいたこともあるのだろう。その姿を想像してみてぼくもはげましを受ける感じです。
では、また。
たしかに文筆家はすごいですよね。私も2度、小説を書くことに挑戦しましたが最後までかけませんでした。幻冬舎の本によるとたいてい最後のページに原稿用紙の枚数がのっていますが300枚とか書かれています。とてもそんなことできませんよ。本多さんは20代で燃え尽きてしまっているようですが、30年後を考えればまだまだ若いです。すこしづつでいいから絵画を発表してほしいです。すごく素敵な絵を描くから。
返信削除コメント感謝します。あなたも作家生活をお考えでしたか。そして挑戦されたのですね。すごい事だと思います。最初の方に、私の絵を見られて「へたくそ」と罵詈雑言を投稿されたようですが、何かのトリックですかね。わかりませんが、あなたには何か読みがあるのでしょうかね。まあ、絵はあなたの言う通りそんな大したものではありませんよ。でも、あなたがもし私と同じ土俵に立つのならば、それなりの実績をあなた様もお見せください。期待しています。
削除その節に関しては大変申し訳ないです。あやまります。大変無礼なことを申し上げてすみませんでした。削除できるところは削除しました。でもあなたの絵をよく見たり考えたりする中で、『意味』があり自分なりに、この現代アートはこういう意味かな、と考えるのが好きになりました。色彩あふれる絵もだんだん好きになっていきました。
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