「動く」作画・宮崎聡子
「動く」作画・宮崎聡子
初めて名画というものを買った。その日から本格的な美術品取集するきっかけとなった作品がある。
それはどこで見たものか?
ギャラリーKに行ったとき、それを一目見て素晴らしい絵だと思った。理由はわからないが、何となく強い美を感じた。
F40号のキャンバスにアクリルで描かれた。抽象画、オブテイカルなアートである。見ていると奥まで引き込まれるそういう奥深いアート作品、どこまでも奥に沈んで美を何重にも感ずるその絵は、四角形の形が画面全体をたくさん占めていて、少し、その四角形の図がずれて動きがある。
タイトルは「動き」
ただの動きでない、やはり作者の芸術に関する悟りも塗り込められその思想も色濃くその絵そのものの価値観が出ている。そういう絵であるからこそ、奥深き絵が表出して、見る者に考えさせる。鑑賞者にもいくらか絵を見る力は必要であろう。
絵は鑑賞者にも訓練が要る。
それは音楽の鑑賞者に似ている。鑑賞力は必要であるからこそ面白くある。見る方もいくらか目の訓練というか美意識は必要だ。
その展覧会は春の絵であったか、女流の画家の展覧会であったか、そのうような名前の展覧会であった気がする。
僕はアートを楽しみと画廊に行ってその例の絵を見て衝撃が走った。
僕はその当時、自分の絵について停滞気味で、まあ、いわゆる具象の宗教画なんかを描いていたりして、なんかそういうのにも飽きて新しいスタイルの方法を探して、実際、自分で抽象画への道を探っていたのです。
具象の表現にすでに飽きていた。
だから、新しい画境を探して、僕も旅をしていた。
その旅路の途中で現代アートに手を出していた。そういう勉強もして自分なりに探求していたのだった。
そして、その絵、
名画
「動く」作者 宮崎聡子
に出会う。
それを見たのは友人と見に行った時であった。僕は友人と画廊に遊びに行って絵を楽しんでいた。僕は「動く」を観てクギつけ、なぜか買おうという感情が出てきた。
それまでは欲しい絵は自分で描けばいいというスタンスであった。しかし、自分以外の人の作品の結構な値段のする絵を買おうということは起きなかった。でも、この「動く」作・宮崎聡子さんの作品は違った。
僕の当時の預金は40万円くらいあっただろうか。それは大切なお金であった。あまり使わないのが僕の信条で定期的な預金をし、支出を抑えながら日々を生きていた。
その「動く」の値段を見た。
40000円であった。財布には六千円あった。今は買えない。また次来て、また、過ぎ去ったのち何か他の作品を見ればいい。思い出の残しておけばいい。
そう思った。
僕は思った。もう、こんな機会は二度と来ないであろうと、この人は将来大物になる。この4万円で買えるなんて今だけだ。あとで後悔するだろうと、しかし、支出を越えるぞ、いやしかし、
結構悩みもせず、もうこんな機会もない。
将来、大物になる可能性が大
絵は、名画だ、あとあと時代に残っていく名画だ。
そして、僕の画業において素晴らしいインスピレーションを与えてくれるそういうマテリアルだ。
僕はこの絵を他の人に譲りたくなかった。誰にも譲らず僕が買う。
その理由に、多くのインスピレーションを与えてくれるこの絵は、おそらく人知を超えた霊感によって描かれたものだ。ほとんど奇跡の絵だ。僕も将来、画業で成功する可能性を持っている。僕が成功したら、この絵は美術館に寄贈するのもありだと思った。そうして時代に残り、多くの人の心と知を刺激し、宇宙的なインスピレーションのこの絵を多くの人にとって宝になるだろうと思った。
こんなチャンスない。幸運の女神はやってくるが過ぎ去ったらもう女神の後ろ髪はなくて掴みたくても掴めない。それが世の習わし、であるから。
予約の青いシールを画廊のオーナーに貼ってもらった。
その時の心境はこの絵は誰にも渡したくない、そのような気持ちであった。美は僕を動かした。その時、美は動いたのだった。
その翌日、銀行でお金を下ろして、お金を払った。
そこで、作品のキャプションに赤いシールが貼られたのだった。
それが「動く」を自分のコレクションに入れる経緯でありました。
この絵は僕に多くのリターンを与えてくれている。まさにお値段以上なのだ。
自分の絵のインスピレーションを得るためのこの絵を見て、自分の作品の考えるし、この「動く」がかなり完成度も高く、手を抜いているところが全くないので、作品の質について学ばせてもらい、自分の絵の調律に使うこともできる。
あと精神安定剤にもなるし、癒しになったりと、もっと言えば禅画のような自問自答にもなる、そういうなんていうか家庭教師みたいな名画だ。
あと、僕が仕事から帰ると、この絵を見て、仕事の質とか、やっぱり仕事は手を抜いても行けないし、こういう名画のような立派な仕事をしなくては行けないよね。と思う。
そして、大事なのが、この名画「動く」を観ることで様々なインスピレーションをもらう。
いわゆる絵は分かればいいものでないし、写実のように見ればわかる絵はあるだろう、そういう類の絵ではない。
あとで、宮崎聡子女史に会うことがあって絵の経緯など聞いたがあまり考えていなかったとか、言っていた。
しかし、木は果実によってわかると言われる。もし、あまり考えていないとしたら、何らかのインスピレーションを受けるそういう心清い精神があって、それを受信して制作に具現したのだろう。
何とも、
絵は、そういう意味で奥深く、
実際、教えてくれる。
あらゆることを、
僕もそういう名画を作り、誰かの精神的な糧になるようなものが作れる日も来ると信じる。
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