「雑文、詩を読んで天才のリスク」

 





「雑文、詩を読んで天才のリスク」


今日もこうして始まりましたね。僕の今日の朝食は、ヨーグルト、ライス、ふりかけ、コーヒー、ハム、味噌汁でありました。朝は軽くでいい感じです。朝食は美味いとかそういうのでなく1日の滋養を体に入れるために食べています。楽しんで食事ができるのは昼食とか夕食になると思います。


とにかく朝は1日の活力を養うために必死であると言えます。


まあ、そんなこんなで最近のアート活動ですが、家に帰宅して寝ています。疲れを癒してそれから夕食だの風呂などはいります。


詩の朗読をやっています。


アルチュール・ランボー詩集

ポール・ヴェルレーヌ詩集


を読んでいます。


自分の詩と比べても文豪の詩には勝てない何かがあるだけでなく、とうてい天才に一生なれないと思わせるほど高みにある詩人の詩を読んでいます。


それも朗読で、朗読して初めてその詩のエネルギーが再生されるものでその力と美はすさまじいものを感じます。


僕ではランボーの境地にいくことはまず不可能に思うときすらある。


それはヴェルレーヌでもそうだし、あのアブサンに酔ったような美の甘さはなかなか天才でないと書けないと思います。


詩の天才たちはなんらかの犠牲を捧げているのか、若さをもってその情熱とストレスとか貧困とかが詩のエネルギーになっていることも言えると思いますので、天才にはなんらかのリスクはあることを知りました。


日本でいうと石川啄木とか中原中也であろうか?あのような天才にしても私生活は大変な刺激でいっぱいだろうし、必ずしも幸運ではなかったように思います。


そのような劣悪な環境から名詩が書けるということもあって、凡人の平々凡々の日常では書けないそんな美がある。


なので美はあらゆる劣悪な環境に対するストレスが激しい鮮烈な美を放つのではないかと思いました。


しかし、天才でなくても詩は書いていいのです。天才は天才でその御方々は殿堂入りしています。平凡な日常を過ごしている僕はそのような天才になれないこと、そして天才的な詩は一生かかっても書けないことを知っています。


ランボーとヴェルレーヌの詩を読んでわかりました。


中原中也、石川啄木もそうですね。


実際、不幸が最高の芸術作品を生み出す原動力になることもあって、むしろ環境が良くないアーテイストの方が最高に素晴らしい作品を作ることもあるのです。


やっぱりその劣悪な環境にある読者の中で天才の萌芽がなんらかの形で顕現するかもしれません。その場所から這い上がって最高の美を描き出す活力にもなると思います。


不幸はアートにとっては最高のご馳走である場合がありますので、必ずしも幸福がいいというものでもないみたいです。




ここまで読んでくださり感謝します。

ありがとうございます

2020年12月10日

ほんだゆうきしるす

コメント

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。 2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による

喫茶店 June 本多裕樹展 2024