「美について考えてみた1」
「美について考えてみた1」
美学について考えてみようと思います。その考察をこの文章でやってみます。これは何回かに分けて発表しようと思います。この美学という問題自体が古典的なテーマかもしれませんが、あえてやってみるのもいいかと思いました。
さて、美とは何か。美、僕にとって美は女かもしれない。女は美しくある。花も美しくある。自然の草木も素晴らしく川の流れの音も綺麗で心が清まる。
美は、そういう意味でいろいろなところにある。それは人間本来知っているものなのだろうか。だとすると美は生まれる前から人は知っていたことになる。美は後天的のものもあるかもしれないが、基本、人間は先天的に美を知っていたのだ。
時代認識もあるかもしれないし、時代の雰囲気によって美も移ろい行くかもしれない。しかし、変わらない美の可能性もあるのではと思うのだ。
私たちの住む、地球は美で満ちている。これは普遍的であるがゆえに美の根源であろう。あと、男が女が好きで、女がお金や身を着飾ることが好きなこと、これは変わらない生命活動であろう。
美とは、それは広がるほどその関心が宇宙大にまで広がっていく。ゆえに、かつて美学講義をしたヘーゲルも自然美を考察に入れないで芸術作品にだけにしぼって考察して学生に講義したのだ。
美ってものは個人差はあるのだろうか。それは多分、性欲に関係することもあろう。今はジェンダーという言葉が流行っていおて男と男が結婚したり、女と女がまぐわったり様々な性の自由が可能な時代になった。自然な性関係は否定されて美の感覚も自由になっていることも事実なわけでそこで普段、我々の使用している道徳観念も古くなり新しく変えねばならない自体にあるのだ。
そこで、美の感覚もやはり変わってくる。芸術においても美は時代が代わりに変化して普遍的なものがアップデートを続け移ろいゆくのだ。いたってオリジナルでないとこの変化の激しい時代において流されて混乱していくかもしれない。
美はやはり移ろいゆくのは本当のところである。では我々は何に美を見出していけばいいのか。これが変わらない美があるとすればあるだろう。それはおそらく本能の部分だろう。生命の質というか生理的なものはどうあっても変わりづらいし変えられない人間の肉体のテンプレートである。
他のどんな部分が変わろうとも本能の美は変わらないし、変われないだろう。性欲、金銭、生理、これは美の根源であると言える。いたって野獣なケモノ的なものであるが、これが満たそうとする欲望があらゆる自然とつながる可能性に繋がり、そこから知性の萌芽生まれていくのだ。金銭に余裕がないと知恵を求めることができない。金銭を得られるならと馬車馬のように勉強していくこともある。性欲がなくては知恵を求める意欲も無くなる。生理的欲求が十分でないと死んでしまうだろう。
美とはそういう欲望を実現させるための根源的な欲望である。知性とかそういうのを言う前に美への欲望が湧いてくるのだ。そこから宗教が生まれ美術が生まれ音楽が生まれるのである。そうして芸術になっていく。宗教の根源は芸術なのである。
美には知性が必要だが、その前の人間の生命の質を見たさねば知性を得ることができない。美は、いたって生命の質とつながっている。美は人間の根源的な欲望である。何かを作ったり想像したりイメージして何かを創作することは実は人間本来の本能であり、高級な霊長類のなすべき行為である。
美は、生命の質であり、欲望であると言えよう。
美は先天的なものである理由は、美は本能的な欲望であり根源的な生理的な欲であるからであります。
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