「続けること」

 「続けること」





何があろうとも、僕は絵はつづけなくてはならないようだ。それを楽しみにして美術館や画廊にきて作品を観たいと思ってくれている人たちがいる。それはとてもありがたいことと感謝でいっぱいです。美術は芸能活動と似たところがありますが、作品をピュアな気持ちで鑑賞してくれたり、僕が頑張って美術に向き合い頑張っている様子を見てくれて周りの人たちが元気でいられるのは、それはそれで僕自身の役割であり役目であるその絵画美術に関してやりがいとモチベーションに繋がるものだと思います。


それで時々、嫉妬やねたみを買うこともあります。恨まれることだってありますし、そう言うのは作品発表して、芸術活動しているとそれをうらやましくなって攻撃したい気持ちもわかります。そう言う挫折した人の気持ちもわかります。仕方のないことではありますし、舞台に立てない人の気持ちもわかります。人はそう言うものです。なかなか祝福するのは難しいでしょう。自己疎外感に耐えるにはなかなかの辛抱強さあと、それを乗り越えるための強さと諦めも必要です。


挫折した人の気持ちもわかる必要があるのは事実なところです。美術もある意味、芸能人と似ています。芸事に能力です。つまりタラントでありタレントです。


そう言うことも考えつつ、自分の道を歩まなくてはならない場合がありますが、基本、僕は美術にとって僧侶的側面があって求道者みたいなところで真摯に絵画芸術に挑み、その活動の進め行く中で人生を描いていると言えます。そうなると余計なことも考えず日々を送ることもできるのです。どれだけ美術に対してピュアであるかが大事だと思います。


詩も書いていますが、デトックスが酷くて出版停止にしていましたが、また、再び出版しようと思います。僕の詩のあり方が自分の心の中にある呪いを吐き出していた感じでありそれは決し公共の役には立たないし、むしろ害悪であり有害図書であるのを僕自身も理解していたのです。しかし、そんな有害図書をまた出版する理由は何かというとそういう自分がカルマに苦しみつつも詩として美を表現していた事実は本当のところで例え悪文であっても読む人にとって意味のあることだと思いました。僕のそうした悪に悩む現実の経験は他の人にとって参考になる経験であり詩でデトックスし吐き出すことで僕自身の脳が清まった事実もあります。もし、僕の詩を読まれて何かしらの発散ができたらそれは価値ある著作であることと思うからです。



事実をそのまま書くのは決して優しさではありません。しかし、人は事実から学ぶのです。事実は学びとして意味があるので、それを隠すのもいいし、それを言われたり書かれたりすることにどれほどの衝撃があるかですが、絵においては現実のモチーフを見てそこに実体感を描き出すように見えます。例えて言えば岸田劉生の絵のように、



ここまで読んでくださり感謝します

ありがとうございます



2021年3月31日

ほんだゆうきしるす




コメント

このブログの人気の投稿

𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。 2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による

喫茶店 June 本多裕樹展 2024