「最終定理」

 「最終定理」





自分の中で何かが完了したようだ。アートに満足し、もうこれ以上の進歩もないようなそんな限界もあるし、その先に行くことも可能であろうが、あえてそこには頑張って行く気持ちも無い。もう、そんなことしなくてもまっさらな自分でもいいと思えるようなそんな自然な感じに、そんなナチュラルな心境になった。


このような状態にあって初めて他人のことを考える余裕も出てきた感じである。今まで何で他人にあまり関心が無かったのかですが自分に課せられた問題が多かったからかもしれない。そういう問題と言うストレスが自分を成長させてくれたことを思います。


人は問題があるからそれを乗り越えようと頑張るものだ。その問題を乗り越えるとさらにまた次の課題が出てくる。その繰り返しであります。私も自分のことはもういいので他者のことに関心が行っています。社会のことやこの世の闇の部分とか他人のことなど、それをターゲットに探求して発表することはできません。個人のプライベートを公開するのはまた違うし間違いであることは僕もわきまえています。ただ、自分の問題以外のことを思考するのはとても新鮮で面白いように思うし、共感させられるどん底の闇にもまた人生の真実があるので、そこは興味深く、手を差し伸べることも大事になっているのがこの世界の真実であります。


しかし、その問題も解決不可能であり、他の個人個人の人生の問題であり、それは個人の問題で自分でなんとかしなくてはなりません。それが人生の真実であり学びであるからです。それに手を貸すくらいはいいかもしれませんが、干渉しすぎもまた相手の進歩や学びを阻害することになりますのでデリケートなことに思います。


悩むことはいいことだと思う。悩むことでそれは苦しくしんどく苦悩に満ち懊悩に苦しむだろうけど、それが生きていることなんだと思います。今、僕にだって問題があり、自分自身にもいたらぬことがたくさんあってそれを荒れ狂う馬のような自分を手綱で自制しているのが現実であります。ちょっと前の自分よりその手綱によってマシになっていると思います。悩むことは自分の問題であり、それは何としても自制しなくてはならないし、修養をなして自分の弱さを鍛えなくてはなりません。とても厳しい人生の課題です。


人はこの世に生きる意味は人生をもって学んでいるから、その学びを放棄することはいけないことであるし、仮に一時期放棄して放蕩にふけっていてもそれもまた学びの場合だってあります。人生のどんなことにも意味があり、人生の放棄というのはありえないし、問題と言う壁は乗り越えるためにあります。その過程に学びがあり、先哲となる可能性に満ちていると思います。


なので、人生の苦境を乗り越えた人の教訓は学ぶべき価値があり、そこに内容が込められ話したとき力に満ちたリアル感が出てくるのです。


人生は苦しいものです。


でも、それは幸いなことであると思います。



ここまで読んでくださりありがとうございます


感謝します。


2021年3月29日

ほんだゆうきしるす

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