「自省集」
「自省集」
今、この年齢になって随分なおじさんになったと思う。若い頃のようなエネルギーは出せないですね。詩もどんどん出てくるものでないし、年相応な生き方が今、求められている気がします。
社会的責任があると思います。それはしっかり守らなくてはなりません。例えば仕事するとか文化活動をするとかですね。あと、私は妻子はいないのでその責任はないけど妻子ある方はそれなりの責任をもって家族を守らなくてはならないでしょう。
太宰治の年齢を越えた今、私はどうするか。芸術は芸術でいいとして趣味でもいいので続けていく。この趣味というものも文化活動と言ってもいいでしょう。なので、多少、自分に才能と技術がありますのでそのタラントの責任もありますがゆえにアートを義務的にでもやらなくてはならないのです。
それもまた責任です。
もう、自分だけの芸術ではないと思います。ある意味、公共的であり、僕の作品で勇気をもらう方もいらっしゃのでそのためにも多くの人たちの精神的な高まる芸術としての意味がありますので生きている限り続けなくてはならないのです。
たとえ、それでアートでご飯を食べていかなくても文化活動に公共における役目があるのは事実です。
あと、詩についてですが、僕の詩は罪のポエムで、エッセイもほとんど業のあらわれでこれがそのままであったら犯罪者になってしまうでしょう。それを清算するくらいの本を発表しないと進歩発展しないと本当に牢屋の中に閉じ込められるくらいの内容であります。
そのポエムやエッセイは僕自身の脳内の業であり、それを本に吐き出した汚れたゲロが詩文になったのです。
いろいろ犯罪者の可能性が内包された私であります。であるならそれを超えるような作品が必要なわけでそれも先にどんどん進んで行くことで罪は消えませんがそれを発展させて光を見出せることは真実なところかと思います。
人の頭の中は罪の箇所があると言います。それを表現してしまったのです。悪や死を真摯に考えていたということです。誰もが罪を背負っていることをやはり知ることも大事だと思っています。
私も罪を認めたところにあって、自分に寛容になれることもあったし、何より自由に少し近づけたのが効果的であったように思います。
自分の心の中に確かに悪があった。それは本当のことです。今も、多少、悪心があるかもしれません。でも私は吐き出した結果、すっきりしたという現象もあったと思います。
私のエッセイの意味はここにあって嫌な気分になる以前にデトックスの経験を体感できるという意味があります。
ある編集長が人はみんな死刑囚だと言っていたように人の心には深い闇と罪と悪があるものです。それを乗り越えながら光のありかを見つけ、しいては善を見出すことになるのだと思います。
元々の善人であれば問題ありませんが、
私は人生のあらゆる場面で嘘をつき欺き、悪心を抱き人を虐待したり暴言を吐き、いじめをしてきたのです。そして宗教的な悪をもろもろ犯してきたのが事実なわけでそういう根本からの悪人の私はそのカルマを清算するために非常に苦労しているのです。
なので、全員が犯罪者ではありません。
天使のような善人も世の中にはたくさんいるし、大部分の人が善人のように思います。
なので、ご安心くだされば幸いです。
ここまで読んでくださり感謝します
ありがとうございます。
2021年4月11日
ほんだゆうきしるす
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