西原さや香 black blooming 2025年5月5日(月曜日)~5月10日(土曜日) 本多裕樹による展評
西原さや香 black blooming
2025年5月5日(月曜日)~5月10日(土曜日)
本多裕樹による展評
ささやかな雨が降り、静かな午前の銀座をぶらぶらして昭和の雰囲気を残したビル「奥野ビル」の銀座中央ギャラリーに向かう。今日は先月から招待を受け、ある展覧会がある。それは月曜日から始まっていましたが、最終日の土曜日に観光も兼ねて行く。
銀座中央ギャラリーは奥野ビル4Fにある。朝一番ということもあり清浄な空気の中、画廊に入る。芳名帳に署名し、展示を鑑賞する。
一瞬、目をその空気感をみる。色の流れ、線の流れ。何かの植物が空間からお皿に落ちる。風を表現しているような、空気と風、緊張感のある線の練達さの荒を感じさせない自由自在な線の自然、この絵の中にサッと清涼な感覚が鑑賞者に響かせる。京都の寺院における静寂な綺麗な小さな川のサラサラとした、チョロチョロとした茶室の季節の音、そんな空間をこの絵は現象させている。とても、心が綺麗になる絵だと思った。
この絵の前に立つ時、植物の強さを感じた。仁王像のような生命の強さをニョキニョキと可愛らしげに天に向かって生長していく様子を見る。一見、一筆でその塊を線で引き上げている。まるで本当の植物のような生長過程を筆で群生させている。一筆が太陽に、光に向かって伸びるように、生き物のように、描く。それゆえか生命の生々しさを感じる。絵が生き物になっていく、マチエール(絵肌)が生き物そのものになっている。
うなだれた植物、だが枯れていない。生きている。夜の時間に植物も眠っているのだろうか。そんな感じを受ける。不思議と眠っている様子を感じるのだ。
ここまで鑑賞して西原女史は絵筆で生命を描き創造している、生き物を、命を塗り込めている。線で一筆で命を創造していることがわかった。
この絵は、ある種の沈黙を、と思いきや、眠っている。生きている生命が眠っている様子を感じる。
この絵は、もう、命尽きようとしている植物の花の枯れゆく姿なのであろうか。先程の眠りと違い、生命の終焉を表現している。そして花は種を残し次の世代の繁栄を表してもいる。死の表現であろう。生命がどんどん抜けていくような、かつては天を目指し、空を高く花を咲かせていたが、ようやく使命を終えて終末期に入る。そんな姿をこの絵から感じる。命あるものはいずれは大地に戻り土になる。しかし、その生命の記憶は永遠に残るだろう。種になってまた新しい命と転生していく。死の表現もまた生命の表現である。ある種の供養のようなそんな尊厳を感ずる絵である。
「massシリーズ」
いわゆる塊である。一見わからないだろうが、よく見ると生々しく生きているかのようだ。花のようであり、命であり、画家はこの塊に命を吹き込んでいる。命そのものを描いているかのようだ。実際、命だろう。生き物、植物、何らかの形而上の生き物、イデアの生き物の具現、それが抽象と言う形でもって命そのものを抽出したmassまたは塊、それは命でありどこまでも視覚でも体温がありそうな感じがする。暖かみを感じつつ、実在性を感じるリアルさもある。とても、鑑賞者を引き込む絵である。
こうして観ていると、生活感があり、リンゴであったり花であったり、植物であったり、命だったり、全ての作品の全体を鑑みるに一つの宇宙を作っている。生活に近くあることがわかってくる。身近にあるものを美しく慈愛の目でもって観ている。それが絵を通してわかってくる。余白の多い画面もまた静かな時を過ごさせてくれるのは、どこか「禅」の精神に近い、日本的な伝統と、心静かな茶室の美をどことなく感じて心地よい。
わかりやすい絵がいいのでなく、ある程度、鑑賞者も考える余裕すら与えてくれる。西原女史の優しさであろう。アートを見てそれをすぐにわかるのでなく鑑賞者も考え、瞑想的にさせてくれる遊びとゲームを提供してくれるのはとても面白いと思う。
一筆で描きあげる筆の運びにおいても書道のような書く感覚を響かせる。その色彩においても命を塗りこめていくことは西原女史の到達した画境である。そして、さわやかでフレッシュな感覚が清涼感を与えてくれる。筆跡もとても綺麗で心が洗われる。
日常のモチーフに私たちが見落とすものに、生命を入れ込む、静物や果物、ある種のマチスを例に出すが、日常なのだ。日常の中に私たちは美を観ている。西原女史はそれをしっかり見て慈しんでいる。
現代の科学においてもかつては空の彼方、宇宙を見ていた。そして、小さな素粒子まで観察しようとしている。
それぞれに見る世界がある。
日常の中に、本当に素晴らしいものもあるし、小さき幸福をとらえることで日々の生活も充実したものになると思いました。
令和7年5月11日 本多裕樹 展評
コメント
コメントを投稿