「驟雨江村図」作・円山応挙

 「驟雨江村図」作・円山応挙

一幅 絹本墨画 1769年(明和6)

99.0×76.2 個人蔵


僕は美術批評を書きますがこれは何ていうか詩人としての立場なのかただの文章家の雑文なのか、という感じで見たままをこの絵のことを書いてみたいと思います。はじめに円山応挙さん個人の情報はあまり知りません。ギャラリーに入って初めて見た感じの美術ファンとして語っていきたいと思います。


この書画は何だろうか風が吹いているように見える。いや、風が吹いていて木々がざわめいている。下部を見ると海であろうか波打って荒れている。光が差した風なのか嵐なのか。それにしても涼やかさえ感じる。優美さえ感じるのは墨の風雅さを表しめているのだろう。


相当な嵐にこの絵は台風にも見える。多分そう見えてもいいだろう。風が、輝き、黒雲も流れ行く。


右の側に家がある。庵なのだろうか。普通の現象であればこの家、または庵は波に飲まれている状況で家人は避難しないと危ない状態であります。


この絵は何を伝えんとしているのか?


風なのかもしれない。その光の風、または嵐、波には心の激情というかパトスを作者は描き出そうとしているのであろう。雨の様子はしぶきとなって空気と一体化している。


しかし、風雅で飾ったこの絵は、墨だけで描かれている。そこに色彩は無い。色彩で描かないために墨だけに絵に思想を伝えんとしなくてならないだろう。


左から右下の大地に向かって驟雨すなわちにわか雨が降り注ぎ家を壊しそうな勢いで吹き付ける。家は自分なのだろうか。自分の家なのか、そこに美はあるとしたら風雨に、その自然の現象に作者は描こうと表現している。


不安はあるのか?


自分に何か破壊的な深層心理が働いているのだろうか?


何かを壊したいのだろうか?


そんなことを考えさせられる。はたまた自分を犠牲にしてでもこの自然現象における人では抗えない大道を描きある意味で自然信仰的な何かを描き出そうという意欲がこの墨画を描く動機になったのだろう。


驟雨であるから昼間ににわか雨が突然やってきたのか。


作者はそれを見てこの一瞬を描いたのだろう。


この墨画は画室で描かれたのだろう。当時の江戸時代では近代フランスの印象派の画家のように野外では絵を描かないので、記憶と意識に残るイメージを絹に墨でもって絵筆を走らせたのでありましょう。


こうして、大気を描き、この天気を表現し写し取ったのでありましょう。ある意味ではこの墨画は写実をやったのであり、墨における現象のリアルを描いたのだと思います。


この円山応挙の作品「驟雨江村図」を見て僕はこのような感想を思ったのでありました。



西暦2021年

ほんだゆうきしるす


コメント

このブログの人気の投稿

𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。 2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による

喫茶店 June 本多裕樹展 2024