「河口聖 第102回個展 越谷ギャラリーKにて」
「河口聖 第102回個展 越谷ギャラリーKにて」
昨日、越谷ギャラリーKに河口聖展に行ってきました。道すがらコーヒーをいっぱい飲みぶらぶら歩きながら、歩を進めた。もう、今週の月曜日に展覧会初日に行ったのですが、その時も集中して鑑賞したつもりであった。そして土曜日の朝に画廊に入り誰もいなかった。
開廊して30分後に早めに着いたから、私が一番乗りであって作品を一人で眺めるという贅沢な気分を味わった。
「Recollection」シリーズ
これらが河口聖の最後の境地と言われる。もちろんその後もあるのですが、傑作の数々であった。少なくとも私はそう思うし、自分の求める芸術のヒントにはなっています。
今回は「和」の感覚が出ていて、日本の芸術家は最終的にここにいたるというもので、遺伝子レベルの感覚で描いてしまうという根源的な懐かしさもある。
河口先生は故郷の原風景を描いていると言っていた。
これだけみてもわからないでしょう。
この作品群は仏教の日本の禅宗を思わせるものがあると思います。例えば禅僧が「石」を見ていろいろ考察して仏の存在を探求するのと似ています。
日本の禅宗では絵画や書をたしなみそこに思想を込めるものであります。近年ではロックミュージシャンのビートルズのジョン・レノンが禅宗の書画のコレクションをもっていたしアメリカ合衆国の若者たちが禅の美術を求めていたという。
そういう意味で、禅美術はインテリ層に人気であったということ、そして抽象画もそのような禅美術に近いところがあるのかもと思います。
美術は社会の求めに応じて作る時代では今はなく自由になっています。
昔の戦国時代の狩野派とか土佐派の絵師という人たちがありましたが、大名たちは権力の誇示のために美術を作らせた。
その一方で禅美術はそのようなものに関係なく悟りを求めて哲学をして書画を描いていた。
社会に合わせた美術は例えばよく売れそうな絵であり、自分の描きたいものを描く芸術家でなく、職人としての売り絵になって本心を失ってしまう。
この絵は一見わからないでしょう。
でも、わかる人にはわかる。
ここに根源の考察があるからです。それも原始的な。
私はこの絵を見ている。絵から出てくるバイブレーションが心地よい。美術は心地よくあってはいけないと岡本太郎が言っていたが、この河口聖の絵は本当の意味で心地よいと思うし古代の思い出すら感じられる。
懐かしい
心地よくあってもいいのだと思った。
岡本太郎の心地よさはよく売れそうな絵のことを言ったのだと思う。
石で、土で、砂でこのフレスコ画の技法で描かれた作品は遺跡を思わせるものがある。
この月で日本の感覚の絵は何を表すか考えるまでもなく、癒しを感じさせさえもする。見ていて落ち着く。
決して激情ではない。これを老境というのは心が波立たないのか。一種の沈黙を感じさせる。
バッハの宗教音楽に通じるものがある。和のテーストではありますが、この絵に太古のフィーリングを感じ、鑑賞時間が長く、楽しめる名画と言えましょう。
激しい激情の絵もいいのですが、河口聖の絵には落ち着きと沈黙がある。
この絵は私のお気に入りの作品でありますが、この絵に沈黙を感じる。
現代音楽で演奏が出てきて途中、音がなくなってその余韻の中にある沈黙の音楽に人間の脳が働き流れてくる演奏に感じた。はるか遠い世界を演出している気がしました。
葉っぱは何なのか疑問に思っていましたが、この意味についてはいろいろ作者から教えてもらいましたが、遊び心でもあろうし、音楽の音を表したり、生贄のようにすら思えました。何かの祭儀における捧げ物と考えると納得のいく解説に思いました。
ただ、この葉っぱにはまだいろいろ意味があるように思いました。
ただ、これらの絵はそれほど考えなくても楽しめると思います。気楽に見れるし、癒しの効果もある。
フィーリング絵画としても機能します。
一種の神々しさもあるがゆえに気分が楽になることもあります。
安定剤のような、疲れを癒してくれる絵だと思いました。
地獄的要素はまったくなく天空の美が絵に描かれているのでそこは誰でも楽しめて癒しになっていくのだと思いました。
2021年10月10日
ほんだゆうきしるす
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