「野に生きる」河口聖  ゆう画廊 「月の光について」

 「野に生きる」河口聖  ゆう画廊 「月の光について」






「野に生きる」という展覧会に行ってきました。銀座のゆう画廊という展示スペースに河口聖による絵画展が開催されていました。


だいぶ前ですが、しばらく絵画制作に悩んでいる私にはいい刺激になった。


この絵のシリーズは「月の光」で私は沈黙を感ずる。聖堂のような、聖所のようなレイアウトに作品の一点一点が宗教画のような、宗教画になっていた。最近においてこの境地に至ったのだろうか、過去の作品から私は観たことがあったが、河口聖の絵はだんだんと宗教画のように変化してきている。そのことが窺われる。人生の深みを私は作品を観て知るのである。





河口聖の絵は石に描かれている。漆喰を塗り、フレスコ画で描いているのだった。神秘性のある図でもあり、人を惹きつける心の奥にある神性を蘇らせる可能性に満ちていて、美としてのレベルも関係なく、高みに達していることを私は思うのだ。一つの宗教画は誰かを救う、何者かを救うこともある。そういう経験をする人は幸いであろう。


深淵にありて、闇の奥に本当の自分がある。悲劇や不幸は決して無意味でなく、それを乗り越えるのもまた人生のストーリーではあるが、一点の絵がそれを可能にすることもあるのだ。







私たちは一人の人生では心の貧困になる。他人の話を聞いたり、他人の作ったものを観たり触ったり、読んで体験することで他人の経験を自分の経験にすることもある。それは絵においてもそうで、ある景色を観てそれを描き風景画になる。その風景画に想いその景色を経験することになる。そこには共感があるのだ。こうした河口聖の抽象画もある共感性がある。観る人の心境や、感じ方である一定の宗教性を体験することができる。それは私個人の感想かもしれないが、他の鑑賞者の意見を 聞いたことがあるが、その人物も同じく哲学や観念、宗教の可能性を感じ感動したという事実もある。私の個人的な意見、感想もまた自分の中だけで完結するのでなく、同じく共感する人も多くいるのだ。




ある種の共感性があるのは美術作品はタダのお遊びでなく、真実にその実相があるかもしれないという証拠になってい る。誰もが感じるこの普遍性、この世的でなく天空の美、もっと言えば観念的宇宙絵画の可能性は画家の最後の境地であり、努力していけるところでなく、また運もあるし奇蹟であるのだ。まだまだその先の形而上学のイデアをわれわれに遺産として文化の高みを垣間見せてくれたのだ。





沈黙して、この絵をみる。


この絵は沈黙しなくてはわからないだろう。心静かにして瞑想しながら観るのがいいだろう。そうでないとわからない。


河口聖の絵を観るときには沈黙せよ、そして心に響かせ感じ、その美の実相を感じ、宇宙の法則を感じるのだ。そうしたら見つかる。美は見つけるものだから。心騒がせてはわからない。しかし、安心せよ、この河口聖の絵に対面すればはからずも沈黙状態に入る。そういうタリスマン的な可能性もあるのだ。


あなたに問いかけるその観念は一体なんであろうか。


そう、河口聖の絵画は問いかけてくるだろう。






2022年7月20日

本多裕樹記す 

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