ギャラリー暁  江戸雄飛 展 ドローイング作品  福井県若手美術家育成事業「ふくいアートアタック」


ギャラリー暁 福井アートアタック 江戸雄飛 展 ドローイング作品

福井県若手美術家育成事業「ふくいアートアタック」



 東京の東銀座を下車し、2分歩いたところにギャラリー暁がある。その2階に画廊があり、入った。入った瞬間、とんでもないことが起きた。 




正面に魂の叫びが圧倒させる衝撃がおそう。そうして言葉を失い、ただ呆然とその展示室をまわる。


何事かと思った。

一見、過去の美術作品から、つなげると長谷川等伯の「松林図」の水墨画を想わせるイリュージョンを演出しているかに見えて、その空間を支配していた。


線描、いわゆるドローイング、その熱気のおもむくままの執念なのか、とても人間技でない力、絵の構成を超えて爆発している魂の放射をその空間に原始の思いから宇宙の始まりまで回帰させる記憶のすべてが弾ける何かを感じたのである。

 





これはダークなものでない、もっと純粋で素直で、だからこそ宇宙の始まりを感ずるもっともピュアで神のような世界をこのドローイング作品に感じる のだ。この線の流れに記号が込められて言葉、書道作品のセンテンスがあり、江戸氏の純粋な心ゆえに神とつながる祭りとでも言おうか、祭儀の可能性が線を描く、もしくは書くことで神殿で行われる舞踊や祝詞をあげているうように思える。






このドローイング作品は、制作は宇宙の根源をお祭りしているのだろうと私は感じて、一種の宗教行事の現場を体験しているようでありました。





江戸氏は知的障害者で自閉症であるそうだ。しかも、美術に向き合う事においてそんなことを関係なしに、預言者になっている。ものすごく集中力がありそれは尋常ではない、知の理性も確かであるし、自閉症といいながら天才であった。


一般に言うギフテッドの特別な才能をもっている。


何かを取ると、何かを失う。


何か無ければ、それをおぎなうようにその空間を埋めようと命を燃やしその空間を埋めようとする。


江戸 氏は、このドローイング作品を言葉であると言う。文字に強い関心を抱きそれを描き続ける。


絵画的思考をそのまま脳内でイメージして絵としての言葉を描いている。


文字的思考は理性のバイアスがかかり本来の能力を封印してしまうとのことだった。


しかし、江戸氏の作品は文字的な思考を超えて、人間本来がもっている能力を開眼し、イメージを絵で見ている。知性を超えた宇宙的感性でその作品制作、または祭儀によって叫びながら祝詞をあげながら紙にペンを用いて祈りを描いているのだ。

 

生きることは祈ることだ、読書はそのまま祈りであるが、描くこと自体は根源的な祈りであり歓喜である。

そして、楽しいものなのだ。江戸氏の場合、生きる喜びであり、興奮状態で美術作品を描いている、もしくは書いているのだった。






そこに、狂気はないのだ。むしろ、歓喜であり、生きる喜びと生命の叫びを吐き出しているのだった。


私たちは知性や理性のバイアスがかかった世界で認知しているかもしれないが、天才はおそらく知的なバイアスを乗り越えて、芸術によって宇宙の誕生の記憶が開眼し、そこから生命の記憶を表現することで、少しずつ悟りの状態にもっていくのだろう。そうして、生命は本来の宇宙の意識とつながり、何かを制作したり、仕事をしたりした時に、神がかることがある。


江戸 氏はスイッチが入ると、すぐに悟りと歓喜の状態になって紙にペンで祈りを、祝詞をあげるのだろう。


常に、文字的思考でなく、もっと根源的な絵画思考でイメージして今日も描いているのだ。





その、歓喜の姿が思い浮かべる。


江戸雄飛は宇宙の根源を見ているのだろう。そこは果てしない無限の可能性の光を浴びて今日も祝詞をあげて描くのであった。








令和5年2月12日  本多裕樹しるす

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