河口聖 氏のある個展にて、ギャラリーKにての私的な経験より 本多裕樹の思い出。





 河口聖 氏のある個展にて、ギャラリーKにての私的な経験より 本多裕樹の思い出。



何年か前であろうか。先輩作家の河口聖 氏の個展に行きました。そうであったか?また、別の企画であったであろうか。とにかく河口氏の展示であった。


そこで出会った作品、私の知っている作風でなく、また。新しい色鮮やかな存在があった。



これをどう思うであろうか。一言で重圧である。色も強度である。あらゆる意味で重機のようなアート作品だった。


奥行きも重い。


まるで王者のような風である。私は河口氏の絵を少しは観てきたつもりであるが、基本、重いパワーはいつもある気がしている。


一瞬、パウル・クレーを思い出すが、それとも違う。こうした作品を作れるのは稀有であろう。


花、ではない。




哲学のような理論の強度な仕組み、作者はどのような覚悟であったか絵を見て私の感ずるところ、巨人というか、怖さ。


爆発とも違く、いや、ゴジラでもあろう。つまり、巨匠レベルに達していると感じた。



毎日、芸術に真摯に精進し、真剣に生きていないと作れない境地であろう。


私はこのレポートを、感想を書く値打ちもないだろうが、私なりに書き留めて行きたい。


この絵は私の好きな現代美術作家たちをしのいでいる。今、その当時、会うべき絵であったのか。まだ、先の日月に出会うものであったか。しかし、こうしてギャラリーKに展示されている。



安易にいいですね。とか、素晴らしい作品ですねと言ってはいけない気がして、何もこの作品について言えなかった。


その現場にいたし、河口氏からも感想を求められた。私は本当は感想は言えなかった。感想は無い。言葉を失っていた。


しかし、なんとか言葉を言わなければ失礼だと思ったので「かっこいい絵ですね」とありきたりな感想を言った。


本当は、この美術作品に先ほど書いたように、重機のような迫力、激しい情念、法悦の歓喜の真摯さ、ちゃんと人生を生きて、ちゃんと生きて芸術に命捧げているような絵の迫力に、威圧されていたのだ。


ただ、王者の絵とだけは言える。


作家ご本人はどう思っているのだろうか?明るく笑顔でお酒をすすめてくれたが、それどころではなかった。


この絵は明るい絵なのだろうか。



ただ、無心にこの制作に取り組み、その制作に聖域をもたらすような、神聖なマターになっていく。壁のようで、奥行きの先に遥か遠くの世界を感じて、色が法となって彩りを広げていく。


怪物、巨人、巨匠。


恐ろしい


畏怖する。


尊敬、


敵にしたら、無条件に滅び去る聖杯、または聖遺物の圧力。


私の感想は他の人から見たら、そんな事ないではないか。君の感想だろと言われるだろう。


私の個人的な感想である。


私の感想であるが、他の人はどう思っているのだろうか。


しかし、誰かが言っていた。美術は発見するものだ。美は発見するものなんだ。それを感じたら、それで幸せでないかと。



実際、作家の創作の意図と違うかもしれませんが、私は、何年か前にこの美術作品に出会い、この道でこの絵に対して、自分はどの方向で勝負していけばいいか、これまでのやり方をもってしても超えられない何かを感じた。この体験はジョルジュ・ルオーの絵を見た時も感じた。塗りこめた迫力、そのパワーを、



私は、重機のような王者の絵の方向を見て、それからの制作に何らかの自分の絵に対しての向き合い方も変わったと思う。


マチエール(絵肌)で勝負しないで、他のルートで自分の表現に生かしていこうと意思した。


河口聖 氏は人生をちゃんと生きている。それはこの絵を見てそう思うし、本気だし、熱意も燃えている。


私は日々の労働をしっかりやり、真摯に生きて迫力のある精神を養っていこうと思った。


ただ、名画というものは、言葉が無い


言葉を失うということは本当にあるのだ。


ありきたりな感想では無理だし、


言語化不能の畏怖の恐ろしさはあるのだ。



なんとも説明が効かない何かがあるだろう。



今後、この絵を目の当たりにする人もいらっしゃるだろう。


現代における名画を私はこの目で見て、言葉を失う経験をした。


どうか、この絵の説明できる方がいましたら、やってみて下さい。


ミステリーというものを通り越して、明かされる時と日を、みなさまに。










令和6年3月10日 本多裕樹 記

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