ギャラリーK (越谷)「生命の尊厳」河口聖、樋口慶子、宮塚春美 展評:本多裕樹による。

 




ギャラリーK (越谷)「生命の尊厳」河口聖、樋口慶子、宮塚春美 展評:本多裕樹による。



生命の尊厳


出品者


河口聖

樋口慶子

宮塚春美



宮塚春美


風が吹いていた。どこまで吹くのか限りなく、果てはどこだ。スペインの景色にゆるりとして、切なき現実を眺める。この風はゼフィロスを思いビーナスを愛撫するのだろうか。そんな雅で華やかな風、喜びに満ちた風、どこまでも私たちを慰め笑顔にさせてくれる明るい世界がこのアート作品を観ていると感じ思うのであった。



宮塚春美 女史は人生をこの風に、澄み切った世界にたち喜びのうちにこの風にあたっている。


それは何か爽やかであり、鮮やかな色彩の歓喜に思う。


なぜ、ここまで明るい世界を表現できるのか、鑑賞者の私、筆者の私は思ったのだ。この悟りきったような風景は、あらゆる山を登り切った人間が感じる世界だと思った。富士山でもチョモランマでもいい、何か困難を乗り越え、あらゆる障害を乗り越えて山の山頂から見上げる空をこの絵は心理的開放感でもって、描き出される「風」なのだと鑑賞者は感じた。


この絵は、山頂の絵である。



スペインを旅した時の思い出であろうが、あらゆる困難、あらゆる苦悩を乗り越えた世界はこういう爽やかな世界だと教えてくれる。



とても、爽やかだが、その陰に、深く人生の根をおろした内容が見るものを迫ってくる。


爽やかだが、ただの明るい薄いものでない。人生の色彩が重く、しかも、強制すること無く、優しく見てくれる天使の目を投げかけてくれることを覚えるのである。





この黒い風もまた、一見、墨による書道の有段者を思わせる思いきった横線である。宮塚女史の絵は終始、このような西風の神ゼフィロスを思い起こし、人を逆撫でせずに、優しくつつみこむようなあたたかいものを感じる。黒い線、黒色は使い方が難しく、かなり色彩のテクニックとセンスがいる。画家の世界では赤と黒を使いこなせるかで色彩のセンテンスと完成度が決まってしまう。


宮塚女史は、この黒い線の風ですら優しさを表現できている。


それは、やはり絵の技量の他に美意識が非常に高いものをもっていることを示してくれる。


優しい絵であると思った。


そして、人生の根が深く、


笑顔の、本当の笑顔を放っている素晴らしいアートであると思った。





樋口慶子


とても、乙女の心、そして、婦人の花のような、動物の浮き出る野生の声が聞こえてくる。絵画制作者は何か乙女の思いで描いている。とても心が若く、そのまま愛を表現している。


この絵を



この絵の数々を観て、動物への愛が伝わってくる。


動物だけでない。



人間も好きであろうし、すべてを愛しているその大きな愛を抱擁を空間を作り出しているのが、わかる。



愛することにストレートで、その愛は万物にまでおよぶ、深く、そしてどこまでも女性的な本能、女性的な野生を、絵に、絵筆を通して塗り込め、にじませる。



この絵などは、ほとんど愛の空間である。


じっと観ていると包み込まれるような、愛の感動を与えてくれる。


愛される絵だ。


鑑賞者を愛してくれる絵なのだ。


私は、この絵の前に立ち、愛されることを感じ、抱きしめられる感覚を味わった。それは包み込まれるような愛の空間を作っている。




樋口女史のアートは動物への優しさと、女性的な愛と、本当の野生的な愛を、自分に正直になって、恥ずかしいとも思わず、ただ、無心に絵筆を握っているように思うのだ。



愛の芸術を、樋口女史は表現している。


動物を愛し、


人間を愛し、


芸術を表現し、


女性的な素敵な乙女心を失わない上品な、昭和の古風で品のある昔いたであろう本当の女子だった。


樋口慶子女史は絵画で愛を直に表現している。





河口聖


遥かなる遠い思い出、海を見てどこまでも、先の先の先の彼方に自分を目がけ、月に願いをこめて、月読命を思いたたせる神秘的な絵画が並び立つ。



河口氏のアートは人間の根源を突き破ろうとして、そこから、月を見出した。


日本海の海、夜に輝く月、神秘。


人は月を見て幻想を夢描く。その世界は内省的であり、自己探求である。沈黙が響き渡り、海のどこまでも深く、鑑賞者を旅させる。






こちらの作品は、古代エジプトの都市メンフィスを想起させる。かつてあった繁栄の都市にも月はいつでもある。


月は神秘をもたらし、人に知恵を与え、天体の理知を見出させる。



月によって人々は自分と内省してきた。筆者はこの絵を見て、どこまでも自分の謎と向き合った。絵自体だけでは考えられない。もっと物その物でもない。



だから、理解できないのだ。


そして、わからない。


河口聖氏の作品は、わからないのはそのはず、物でない。ものそのものでないのだ。


この月シリーズは鏡なのかもしれないとさえ思う。


このように、真剣に鑑賞できるのであるから、奥深く、深淵なのは絵を見つめると同時に、自分のことも見ている。


そして、古代を思い出させてくれている。そういう美術なのである。そして、美学でもあるのだ。




人生を真剣に生きている人なのだと思う。


真摯なのだ。


遊びがどこにもない。


瞑想的にさせるアートマテリアルなのだ。


河口聖氏に似た作家にマーク・ロスコがいるが、ああ言う瞑想空間を作ることに成功している。


神秘の月はいつまでも内面に輝き、いつでもアートをもって人生を真摯たらしめる。そういう美術作品であると思う。


そして、美学そのものであると思いました。




まとめ


今回の展示は、ベテランの作家の方々で巨匠の道を歩んでおられる方々でありますが、まだまだ、挑戦し、数々の展示を繰り返してとても忙しい中、毎日芸術に精進されている方々であります。やはり、若い頃は遊んでもいいと思いますが、本当に傑作を制作するには、芽が出るまで何年も何十年もかけて制作し、日々の生活をして、仕事もして、アート活動をし文化に貢献していく中で成熟していくのだと思いました。傑作は続けていく中で、生まれて行くし、もっと、芸術も人生も根を下ろし、いつか花を咲かせる時がくるのだと思いました。芸術は結果が出るまで時間がかかります。明日明後日でできるものでなく、じっくり時を生きて制作し続ける中で一輪の華を咲かすことが可能になるのだと知りました。

これが本当の「生命の尊厳」だと思いました。



ここまで読んでくださり感謝します。


ありがとうございました。




令和6年4月6日本多裕樹 記


コメント

このブログの人気の投稿

𣘺本悠 個展 NGG中野銀座ギャラリーを観て、筆者・本多裕樹のアートの旅。 2024年3月24日日曜日~3月30日土曜日

新藤義久の写真の世界 批評 本多裕樹による

喫茶店 June 本多裕樹展 2024