「理宇」の作品を見て 奥野ビル 銀座ステージワン 銀座モンパルナスにて  本多裕樹による

 



「理宇」の作品を見て 奥野ビル 銀座ステージワン 銀座モンパルナスにて  本多裕樹による


旅をして銀座を観光していた。その道すがら私には目的があった。


理宇 氏の絵を見なくてはならないと、それは飢え乾くように観たかった。それくらい魅力の余韻のある作家の絵なのである。


銀座の奥野ビルに入って一室、入ると画廊主の織田泰児Fに会う。いろいろ今日の展示の説明を受けた。


その中で一際目立つ、作品は理宇の展示であった。なんとなく、私に近いものを感じた。あえて童話や絵本の絵に異化し、親しみやすく、あたたかみのある表現である。


一眼見て、安心した。


少女、


メイド、(これは男子なのか女子なのか?)


猫、


神話画、(象徴派的な19世紀の表現 ムンクなど)


これらの絵をじっくり見る。いたるところでよく描かれている。あらゆる部分で理にかなっている。



一見、童画なのであるが、どこも手を抜いていない。しかも、硬くならずに動きもある。よく計算された絵なのである。


なんとなく郷愁と悲しみさえある。


作者は孤独なのであろうか、その孤独感を絵に描いている。なんとなく悲しみに浸れるところがある。それが美なのか、これが絵に格調を高めているのであろうか。


絵の描き方に、マルク・シャガールとアンリ・ルソーを見る。神秘性が雰囲気をかもしだしている。


画廊主に聞くところ、若手であるそうだ。そして、出品されると必ず何点か売れるのだそうだ。とても魅力的な作品であると銀座ステージワンで売り出しているそうだ。


大事に育てている空気を感じた。



この絵はなんだか、夢心地である。なぜだろうか、不思議だ。

劇場で絵筆を持ってモチーフを測っている。周りのぬいぐるみの動物たちがお酒を飲みながら少女の舞台を笑い、悲しみ、疲れて寝ている。


孤独なのか、まだ、誰からも評価される前の、新人役者の画家の少女、しかし、目は輝いている。夢を描こうとしている。


少女の頭にある王冠は自分は絵の王者であることを示唆しているのだろう。小さな劇場でも自分は世界でトップなのだという自信と勇気で満ちている。頭にある王冠でそれは心理学的にそう象徴していることがわかる。


貧しいのだろうか、みんな、それでも夢を失わずに頑張る姿を観客に見せている。暗い中、それでも希望を失わない精神がこの絵にある。





このメイド、なぜ、メイドなのだろうか。メイドが遠くに行く船を見送っている。悲しい絵なのであろうか。どこか悲しい、寂しくもあるし、美しくもある。


メイドは女性の家政婦みたいなものだろうか、メイドは女中なのだろう。所謂、召使いである。

メイドそのものに悲劇性がある。階級社会の憧憬であろうか。仕方なく売られていく女性の姿であろうか。

当然、主人もあることだろう。もしかしたら、主人と恋仲になっていくメイドもあるかもしれない。

その主人が海外に仕事で行くことになり、メイドは悲しんでいるのだろうか。

悲しそうである。

あの船は希望だろう。メイドは理宇 氏自身かもしれない。みんな、どんどんいろんなイベントがあり、結婚、出産、ありふれた幸福、仕事で上手くいってその場所にいる人、など、そういう普通のありふれた幸福があの豪華客船でありそれを見送るメイド、メイドは理宇氏自身を象徴しているのだろう。そして、メイドは取り残されていく。




とても、悲しい絵である。


一つ卓に置いてある紅茶は主人のためであろう。しかし、それを飲む人はいない。


ただ、供えるだけである。


ただ、取り残される自分、それを郷愁として感じるのである。





猫、唯一の友達、その友達が笑顔をなげかけ、甘えてくれる。こちらをじっと見つめて、愛らしく、飼い主と猫は愛し合う。


猫はただ、甘える。そして、心を持っていて飼い主と時をゆったりと過ごす。そして、気まぐれにもどこかに行ってしまう猫、猫は気ままである。あんなに優しくしてあげたのにどこかに行ってしまう。それくらいドライな関係の方が疲れないでいいのだろう。


この絵を見て、猫を質感深く描いている。作者は猫に対して深い愛を注いでいるのがわかる。


たとえ、猫を家族としなくても、


この深い、マチエールの質感は、力があり、重くある。

手をかけた絵だと一見わかる。

ジョルジュ・ルオーのような質感、モーリス・ド・ブラマンクのような大胆さ、


そして、動物を愛することを知っているのだろう。


蜜月の日々をこの絵から感ずるのであった。





この魔法使い、


まるでフランスの象徴派の「悪の華」の詩人であるボードレールの世界を思わせるダークな絵である。


酒に酔っているのか、


暗黒の部分が出ている。それは誰もがそうだ。


人は誰でも紳士の要素と暴君の資質をもって日々を生きている。

芸術家は誰もがこの暗黒面と向き合わなければならない。そうでないと絵に、絵の雰囲気に奥行きが出ないのだ。


自分の中にある悪を認める儀式がこの絵にあるのだ。


理宇 氏は自分の暗黒面をも愛して、絵に表現し、開放している。美を求め、自分の邪悪な部分と向き合っている。誰もがそうなのだ。それを避けると薄い絵になってしまう。


この絵は、自分の心の魔をも味方につけて善と悪、光と闇、の二元論を合わせて陰陽における道をとおして芸術の悟りの一歩を踏み出したのだ。

ゆえに、この展示における数々の作品を見渡して、文学的な心の深みを醸し出す因となっているのだ。薄くはなく深みに、絵に奥行きが出て心に染みる絵が描けているのだ。



今後も制作をしていくだろう。


理宇 氏は奥野ビルの銀座ステージワンを舞台にしているが、年に一回、東京都美術館で開催される東京展にも出品している。


とても魅力のある作品であったと思います。


文学の力が強かったし、それが絵全体の雰囲気としての魅力になっていました。


また、展示に出会えれば幸いに思います。


ありがとうございます。



令和6年5月18日 本多裕樹 記



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