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予告 ギャラリーK 河口 聖 展 2020年10月5日(月)~17日(土)開催

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  予告 ギャラリーK 河口 聖 展 2020年10月5日(月)~17日(土)開催 この時期に語っておかなくてはならない画家、もしくは美術家、版画家、展覧会企画者、アートリーダーとして美術界をリードしている影の人がいる。 今、この人を巨匠と言うにはまだ早いがおそらく美術史に残るくらいの実績を残しているし、それも明らかになる時代も来ると思う。 その人の代表作は無いらしい。全てが代表作であるそうだ、確実に普遍的な絵画を描き、輝きを放つ美術家、それは 河口聖 である。 数々の業績を残した生ける偉人だと僕は思っている。その人との出会いはある展覧会であった。ギャラリーKで行われていた河口聖さんの個展であった。僕は仕事の疲れを癒すために画廊に美術体験するために仕事の終わった後に寄ったのだ。そこで河口聖さんの作品に出会ったのだ。 最初の出会いはそんな感じであった。作品は目がなくては見れない。その目は普段使っている一般的な目ではその絵は見れないであろう。なんの変哲の無いものに見えることだろう。 しかし、僕はそこに美を感じた。それは今まで見たことの無い絵であったし、長年求めていた完全構図を実現し、スピリチャルな可能性の神秘性もあった。それは心の波長が合わないと合わないであろうし、縁も持てないであろう。 河口聖さんはその個展会場にいた。大きめな肉体で強そうだった。手は分厚く、強そうだ。プロレスラーに高貴な精神を内在させたような存在の人だった。 私は個展会場をじっくり見て作品に不思議な衝撃を受けながら見てまわった。何故か自分の将来を思い浮かべてしまった。 僕は私塾を起こして後進の人を教えることをイメージできた。その時、この絵をシンボルにしたいと思い。オーナーに頼み、購入した。河口さんもオーナーも、若くてお金の無さそうな私を見て、まけてくれた。これはルール違反であるが、値切ったのだ。でも、それでも買わせるほどの絵であった。それは思い出す。 個人蔵、作・河口聖  そして、それからいろいろ縁があって展覧会に招待されたり、パーティーに招待された。一緒に展示会をもって参加することもあった。 私は、河口聖さんの手をさわった。さわらしてもらった。分厚く職人のような強い手であった。その感触を今でも思い出す。 それから、今回、ギャラリーKで人生で10

今日でギャラリーK 「遊墨展」が最終日で終えました。皆様ありがとうございました。

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  今日でギャラリーK 遊墨展が最終日で終えました。 皆様ありがとうございました。 今回の作品群は墨だけあって、美術鑑賞者にとっては玄人向けであったのではないかと思いました。 全体で黒でいっぱいで色彩の強いものがないので、わかりずらかったのではないかと思います。 私の出品作も決して映えるものでなかったのか、掛け軸ゆえであろうかと言う意味でインスタ映えはできたのではと思っています。 僕の作品を見てみて、どうもいいかわるいかと言うよりも、前衛書であったのですが、それに理解を深めようと言う感覚がなかなか難解であったのは多少反省しています。でも、あの図は、または書道作品は、イメージと言うかインスピレーションと言うか霊感でキャッチした世界なので技術がどうのこうのでなくい夢の中、観念の中で作り出した幻影を具現したまでであると言えます。 観念の事象をとらえて書に字として転写、筆記したものでありました。 なかなかわかりずらいものでありながらもちゃんとした作品として出品できたのは成果だと自分では思っています。 墨は難しいと思いました。 他の作家さんの絵はいくらか売れていたと思います。また、こうしたコロナの時代であるのですが、鑑賞者の方々もけっこう来てくれて本当に嬉しく思います。あたらめて感謝の言葉を捧げます。ありがとうございます。 墨で、現代書。 なかなかわかりずらい。作者本人はいいと思っています。 でも、いろいろな人が来てくれました。大変感謝です。ありがたく嬉しく思います。非常に無名の私に気にかけてくれる人たちや周りの人たちに励ましをいただき、また、頑張ろうと言う意欲にもつながります。 大変、ありがたいことと思います。強いモチベーションになります。 前衛書にいくらか理解をもってもいいしもたなくていいし、ああ言う書道作品は新しい試みゆえに新しいことだと思います。 売れなかったことを少し引きずっているように思える文面ですが、実は前衛書を初めて出して世に問えて本当は嬉しく、そして挑戦できたことを自分の中で快挙だと思っているのです。 勇気を出した一手であったのですた。 世の中には、前衛書で頑張っている人がいることを知っています。それで現代書を世界をリードしている書道家もいます。そして、私は美術家として書道作品を出品したことによ

「ゼウスの出現」作画・本多裕樹

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  「ゼウスの出現」作画・本多裕樹 この絵は何を描いているのだろうか。おそらく作者でないとわからないであろう。または元気の出る絵だと感じるだろう。 そうであります。この絵は霊的な太陽のような輝きでわれわれを照らしています。この光の可能性は霊的な存在を指しています。 それは「ゼウス神」であります。ギリシアの主祭神であり、最高位にある神を描いてみました。 この絵の発想はまず、キャンバスで考えるのでなくて普段生活している中でこのような図というか光が現れます。それをインスピレーションがキャッチして僕も意識でキャッチします。それでキャンバスにアクリル絵の具で清書してみたという工程でこの制作は行われました。 清書は意外に簡単なものです。そのインスピレーションも突然なのでほぼ奇跡によって描かれた絵であると言えます。 人智では何ともしがたい絵であると思います。 さて、この絵そのものに解説を移していきたいと思います。この絵は赤い光が燦然と光輝き、ゼウスと思わしき赤い太陽は光を放ち知恵のエネルギーを与えてくれます。周りの黄色は法を表す色で様々な知性の形を、または観念の旅路を作っています。 ゼウス神の中心には五芒星が記されており、自由で奔放、開放的であり、どこまでも光を飛ばしていくようなメッセージを与えてくれるでしょう。 光は、赤い光は豪放磊落を意味して、雷霆を持って裁きを行うことでしょう。審判者であり、アートの神であります。それは開放的な光からアートをもって人間を開放しようと表現をしている。 ゼウス神は芸術の神であり、さまざまなギリシアのアートの中心的な神々の一人であります。その顔は厳しく、光輝き、光明を語るであろう。  開放的であり、存在の光となって大地に雷を落とす。 この赤い星のように光るゼウスの意識体はただ輝き続けるような無尽蔵なエネルギー的な存在であります。五芒星は常に調和してそして動きは車輪のように回り、大地に光を供給しています。 私はこの作品をイメージで見ていると仕事中でもプライベートな時間でもこの図が焼きついていました。これを描きなさいという啓示であったことも言えると思います。 なんか閃いた、そんな感じです。 そんな閃きからこの絵の図が出てきた感じです。そういう意味でインスピレーション型の画家である僕には不思議なことが

「形而上の生活の記憶」 作画・本多裕樹

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  「形而上の生活の記憶」 作画・本多裕樹 この不思議なと思う絵は、心の世界、または意識を飛ばして別の世界に行ってしまった時の、このように見えるであろう現象を描いてみました。 宇宙のどこかの高次元の世界であり、観念的生活の可能性を描いて自分もそこにいた記憶を思い出し、キャンバスに絵の具を塗り込んでいきました。 この絵は、いくらか抽象画のエスキースしている時に、発案したものであり、またアンリ・マチスの「窓」の影響も受けています。なんだか瞑想状態に入るそのような美術作品として、このように描いてみました。 あと、ミニマリスムの影響を受けています。 僕自身、ミニマルアートが好きだし、マチスの「窓」好きでありましたので、自分の絵で描けたことに大変、満足している感じです。 ミニマリスムでは、ステラの絵が好きなので、そのステラさんのかっこいい感じの雰囲気を出してみました。 そして、僕は意識を飛ばして、このような意識だけの集う世界を垣間見たのです。これは流入の世界であり、天空よりもっといと高き可能性の法則群をイメージしたものです。 たいして苦労していないで描いているかもしれませんが、実はプロットというか下絵で苦労しています。 漫画家で言うところのネームも重ねており、下絵もやっています。イメージによ想像状態においてこの図を描き、瞑想によってこれをはっきりさせる作業というのを繰り返しています。 そして、一瞬にしてこれをキャンバスに清書します。清書が一番楽なのかもしれません。 アクリル絵の具と絵筆、水、キャンバスがあればそれだけで絵はできてしまいます。 この絵の魅力はうるさくないのがいいところだと思います。無駄なものを、または形をそぎ落としてミニマルにしていきます。そして、鑑賞者がじっと凝視してもいいように一色の色にいくらか別の色をささやかながら混色しています。雰囲気だけ色をさっと混ぜています。 当然、ブラックにも色を、鈍い色を混ぜているのです。 なんとなくじっと見ていると考え事したくなるようなそんな絵です。 これは絵か?落書きか?それは見る人が価値を認めないとこれは美術品として判断も認識もできないでしょう。 この絵をゴミと思うのもいいのですが、これに美を見出した時のその感動は面白いものだと思います。 美は見つけるもので

「湖の音はイシスの夢の観念」 作画・本多裕樹

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  「湖の音はイシスの夢の観念」 作画・本多裕樹 この絵は何であろうか?音を表す鍵盤が打たれている。その鍵盤はどこの世界か。 この鍵盤にも似たものは人柱でもあり、神の柱であります。 はるかあの世でもあろうか。死後の世界において宇宙を構成する法則が、われわれの心の中にある観念的世界から引き出したイメージ、そして、この神の柱、色彩放つ色の鍵盤は人の意識であり、生命の形をなした現象化された画像であります。 これは何と言う前に、このイシスの夢は私たちに教える。これこそ天上の音楽であると、私たちは永遠に神を賛美して歌うであろう。その世界は喜びに満ちだ生命の果てである。 死が終わりでなく、死の先にもまた意識としての生活があり、法則として、個人の個性における可能性は霊の柱として大地を輝かすであろう。 その、鍵盤の音の数々は静かなメロディーを奏で、全宇宙に影響を与えているのだ。 いたって天国的な音楽をキャッチしてこうして湖の静かな情景を描いたのです。 こうして、じっと見ていると沈黙を感じ、少しばかり瞑想的になっていくのですが、そこの入り口はこの鍵盤の霊的な波長をもたらす夢であります。 私たちはイシスを思いはせる時、エジプトを連想するでしょう。そこから、古代のエジプトの精神が降りてきます。 思えばそこにたどり着きます。思いが世界を見るでしょうし、画家は見えないものを描く時、意識は別の世界を旅しているのです。 そうやって観念世界に入り、霊的なシグナルを受けるのです。そうやって神秘と思いし事象でも、絵画として具現するとこうしたものになっていきます。 これは宇宙的な音楽と、エジプトにおける生命の観念世界がこれを表す音として、または人柱の心の意識、そして、総合的な音楽における神を表す。そんな絵なのであります。 これからの絵はもっと見えない世界からのシグナルを感じることなくして人々は感じないであろう。それは昔からそうであったのでありますが、名画と言われしものはこの霊的シグナルがあるか無しかで決まっていたように思います。 たとえ、技術的な高みがあっても時代に残らないものもありました。技術のなくても今の時代まで残るものは残ります。 やはり、精神的な可能性、そう言うのが絵画にあった時、その作品は名画になったことを僕は美術史を学び知ったもので