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最終日「第11回  ART CONFUSE 展」東京芸術劇場、みなさまお疲れ様でした。

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  最終日「第11回  ART   CONFUSE 展」東京芸術劇場、みなさまお疲れ様でした。 今日で展覧会は終わりました。みなさまご来場ありがとうございました。 様々な方々が来られ、本当にありがたく、感謝にたえません。特に私目当てでなくてもこうして鑑賞者がワイワイやっている様子を見て満足を覚えるものを感じます。 本当にありがとうございます。 私の今回の出品作は「ダイモーンの楽士」というタイトルの板にアクリル絵の具で描いた50号の作品です。 一点しか出品していませんでしたので、お客様からもう数点出品して欲しかったし期待もしていたとのお言葉もありました。 そうやって期待してくださるのはありがたい激励に思います。 ギャラリーKのお客様も来られてちょっと意外に思いましたが、酒のあるところにはどこにでもいきますよとのお言葉でたいへん祭りの雰囲気もあったのが嬉しかったです。 いろんな人と語らいました。けっこう横のつながりを大事にしている展示会でだけあって、そういう雰囲気がありました。 私の作品に関しては、この絵は、ソクラテスが直接指導を受けて哲学をしたであろうというダイモーンという神霊が音楽をもって世界に知恵を奏でている図、またはイコンであります。その音楽は人々の心を動かし、脳内麻薬が分泌されるようなそのような図です。ブルーの背景に、それは精神的な色彩であり心の奥を沈めて瞑想的にさせる意味をもっています。音を表すオレンジの点はアドレナリンです。楽士たちは角笛をもって世界に啓示を送っています。宇宙の知恵は音楽によって伝えられる。そのようなコンセプトの絵画作品です。 この絵は寝ている時にイメージして、それで板にアクリル絵の具で塗りこんだものです。鮮やかな色彩はいくらか暴力的でもありますが、それは暴力でなく、興奮であります。 世界は色彩に満ち溢れ、その田園風景においても音は流れている。地球は生きていて、神霊たちがいつも角笛をもって奏でているのです。そのようなイメージをしています。 もちろん、他の人の意見はまた違うかもしれません。 作品を出品することは、一度出されたものは踏みつけられるといいます。心の中では色々な意見もあって言い出せない何かもあるかもしれません。 でも、私の絵はどんな感想でも受け入れて聞き流していきます。こ

「第11回  ART CONFUSE 展」東京芸術劇場にて開催

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  「第11回  ART   CONFUSE 展」東京芸術劇場にて開催 アートコンフューズは自由な空間。 絵画、イラスト、写真、グラフィック、造形、その他なんでも形式など重要でなく、あらゆる表現は許されています。 作ること、描くこと、表現すること、そして感じることが大切。アートを楽しむ素敵な時間を(フライヤーより抜粋) また、出品することになりました。しばらく出品していませんでしたが、去年、スカウトされたので出品する形になり、作品も用意した感じです。 この展覧会は日本美術会主催であり、次の時代を担っていく若き芸術家が集まって作品を発表し、世に問うものです。 さて、鑑賞者の方は何を感想を言うのか、この展覧会はそんなに敷居の高いものではありません、鑑賞者の方もズガズガ感想を言ってもいいのです。 作家と直接、対面してお話しできるのはだいたい初日でありましょう。 あと、僕の絵に関しては写真撮影自由です。インスタ映えも可能なくらい大きい絵だと思います。F50号の作品を出品します。 ぜひ、楽しみにしていてください。 いろんな人が出品するようです。私はほぼ新参者に近い出品者の私ですが、草創期から出品している人もいます。 この展覧会の出品者はポストアンデパンダン展を担うそのような人たちかもしれません。そう言う意味で重要な展示会にもなっていて開かれたアートを発表する場になっています。また、そんなの関係なしに参加することに意義があると思い、出品を続けている人もいます。 実は言うと誰でも出品は可能なのです。素人も玄人も出品できます。そこはいいところではないかと思います。ぜひ、あなたも美術品を制作してみてこの展覧会の来年に出品し世に問うのもまた面白い事かもしれません。 今年はもう出品者も決まって展覧会をやる実行する段階にあって満を期していますが、来年、あなた様も出品することも可能でしょう。 内輪でやっているようで、実は開放的な展覧会になっています。そこはいいところでないかと思います。 ぜひ、いらしてください。 あなたが来てくれることをとても、嬉しく思います。 第11回 ART   CONFUSE 展 開催日時2020年9月27日(日)から30日(水)の四日間 12:00~20:00(初日と最終日は19:00まで) 会場

「首藤教之展 感想」

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  「首藤教之展 感想」 道に迷い、白楽駅周辺をさまよっていた。なかなかギャラリーが見つからない。昼ごはんも食べたいと思い焼肉屋さんの暖簾をくぐったがランチはやっていないらしくて、店で食事できるのは夜だけであった。 それで、とにかく探した。そしてギャラリーがあった。女将さんがいろいろ案内してくれて二階に行った。そこは首藤さんの作品でいっぱいだった。小さなスペースで三畳一間もしくは四畳半の空間に首藤ワールドは開けていたのだった。 雑貨なのか?そんなことを思った。材料はあまり高価なものは使っていない。でも、何かそこに親近感を覚える。ちょっと作品に触ってみると感触がよかった。温かみのあるそんなマチエールであり、その描かれた図、または絵は何て行ったらいいのか占いに使えそうなそんな原始的でアニミズムな感覚が僕の脳内に滲んでくる。そこがポイントなのだと思う。手触りの暖かさ、そして図においては魔法を、それも可愛いおもちゃのような距離感の近さがあった。 ある意味、神秘的ではあった。そこに強い魅力を感じたのだ。 星を描き、昔の憧憬を切なく描いた船の図、 首藤さんはエジプトの絵画とか、メキシコの古代の絵とかそう言う精神を持っているのだろうか、老人になってもピュアな感覚と心を維持しているのは素晴らしいことだと思う。 汚れないって言うのは大事だ!戦争も経験していて中学生の時に戦争は終わってくれた。それがショックでトラウマを心に刻まれたのであろうか。切なさがどことなく漂っている。 今、首藤さんは幸福なのか?老境いたり何か得る答えでもあったのか。この玩具美術において何か傷は消えないのだろうか。 そんな感傷の中、星を見ている。 星に思いを馳せている。星を愛しているのだろか。どうしよもない現実においてただ、希望と平和を夢見ている。 そうだ、現実はとても厳しい。 首藤さんはそれでも笑顔を絶やさない。そこが素晴らしいところだと思った。 作品にはどこも愚痴がなかった。感情をぶちまけて破壊行為をすることもなく、そう言うところも見つからない。 社会を冷静に見つつ、中庸な精神で世界と向き合う。 しかし、首藤さんは星に帰りたいのでないか? 全ての作品に、夢があり、優しい、そして穏やかな調律をしていて、それを維持して、制作している様子がうかがわれた。

「首藤教之さんの個展にいく電車の旅」

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  「首藤教之さんの個展にいく電車の旅」 旅に出ている。休日にゆったり過ごしているつもりではあります。昨晩は寝れていたのか?2時くらいまで起きていました。 眠れなかった。絵を描こうとしましたが、そんな脳の状態じゃなかった。やっぱりよく眠った方がよかった。 しばらくゲームをプレイしていたら眠くなって起きたのが7時ごろ。いつもの時間に起きた。 仕事も公休であり、自由ゆえにダラダラと朝食を食べていた。コーヒーをすすって音楽を楽しむ。そんな時間がしばらく続いた。本も読むこともなく、 ただ、音楽に耽溺していた。 今日は首藤教之の個展に行くけっこうおしゃれな日だ。招待してくれたので嬉しかった。横浜なんて普段行かないのでいいきっかけになっている。 電車の中で、音楽を聴きながらその空間を楽しんでいる。 白楽駅まで行く。なんだかワクワクしてきた。 田園調布には豪邸がいっぱいあった。初めて豪邸を見た。楽しいですね。 休日に絵を見る、それが何度も言うけどおしゃれですね。 首藤さんの絵画というのは何というかパウル・クレーに近いものがあるのだ。とても入りやすい絵で、すぐその世界に慣れていきますね。そこがいいかも。 休日に遠くに出る。それも横浜、白楽駅まで、僕は鉄道マニアではないのですが、電車の中で読書したりするにはいいものだと思う。 昔、ある人が歯医者で抜歯してあまりにも痛いがゆえに電車を終着駅まで何度も乗って行って痛みを和らげたということがあった。そういう意味で鉄道ライフを借用し、痛みを楽しみでごまかす方法があるのだそうだ。 もう、そろそろ、横浜に近い、白楽は通り過ぎてしまった。間違えて急行に乗ってしまったのだ。 横浜に着いたら、また各駅停車に乗って白楽に戻ります。 まあ、こんなアクシデントも旅のおもしろささ。 コーラを飲んでいる。普段コーラは飲まないのですが、電車の中でコーラ飲むのは美味いものです。ほとんどコーラは子供の飲み物でありますが、たまにはハメを外したい気分でコカ・コーラを自販機で買ったのだ。 けっこう美味しいよ。砂糖が効いていていいね。 普段はお茶ばかりなので、ありがたい気分になる。もちろんお茶の方が好きなんですが、あと、ビールが好きですね。 たまに、電車の中でビール飲む人見かけますね。あれ、すごく

「ひまわりと少年」作画・knob

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  「ひまわりと少年」作画・knob 数年前、あれは5年くらい前だったか、名画を購入したのだ。それは無名画家knobの絵画作品である。憂鬱で不気味な美を初めて見たその絵は、その制作過程をknobはSNSで発表していて、筆者はその制作にかなり強烈なものを感じたのだ。 Knobとは今、友人でも知り合いでもない。ただ、作家さんであり僕のような客は相手にしないのだ。それでもいいのだが、作品さえ良ければそれでいいのだ。 そして、僕はこれを購入したのだ。 その不気味な明るさ、太陽の下で暑くてしょうがない灼熱のヒマワリ畑にたたずむ少年は?もしくは少女?子供は何かを見たのであろう衝撃的な悲劇の現場をそれゆえに呆然としてあるものを観察しているのだ。これは作者の投影であり、画家は見るものは果てしなく茫漠で遠くを見つめるこの目は、黒い手の出てくるのを知らない。右にある黒い手は死の世界への導きであろうか。それは死を望んでいるのか。そんな絵を描くのに何か意味がある気もするのだ。 Knobは何かを見ている。普段は工場で労働をしてそのきつい労働に耐えながら美術家になるという 夢見ている。いつかはと思いつつも、その黒い手は彼には見えるのだろう。 いつも死と隣り合わせな現実、不安、焦燥。そんな気持ちが、ヒマワリという夏に燦然と咲き輝く花に同化しながら、一瞬の美に死を織り交ぜる。 美には死がいつも隣り合わせであり、美はけっして平安でもなく、もっとも美しい時代であろう子供にそのような黒い手がやってくる。神隠しであろうか、黄泉の世界に導き入れ、食べようとしている様子が想像できる。 いたって不気味、しかし、そこに美がある。 誰かが言っていたが、「美には死が伴うことで最高の一瞬になる。」 これは写真にも言えるかもしれない。ホームレスの写真や、死に際の写真、これは不快なものであろうが、それは美なのだ。美は恐ろしいものなのだ。美は一瞬に輝く闇であろう。 この絵は水彩画である。よく見ると高い技術で描かれている。その細部にまで手が込んでいて手を抜いていない。この画家knobは仕事は手を抜かないことがこの絵みてよくわかる。細部までデイテイールはそれは美としか言いようがない。 細部に神宿るというがそれを言い得ている作品と思う。 私はそれを購入し、それ以後、手紙を書き応援