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3月, 2021の投稿を表示しています

「アート株」

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「アート株」 アートだけで生きるのはよろしくないのか?アートだけで生きている人は少ないであろうしアートは基本的には趣味に属する部類である。しかし、なんと言うか絵画だけで生きている人もいるし、そう言う人は少数のプロの画家であることが言えよう。 有閑階級の人が絵を描いている事実もある。旦那さんが労働して奥さんがアートをやって自己実現をしていることもある。暇な人が時間を持て余して絵画をしたりしている。 あるいは、働きもしないでアートという博打に挑戦する人もいる。 今、どのようにしてアートを続けていけばいいか。趣味であるアートが趣味でなく生活の資になりうるかであるが、やっぱり複業であればいいと思いますし、そう言う人がほとんどである。 画家は生活できないのは今も昔も変わらない。絵を買うことはあるかもしれないが、絵を買うのは贅沢な買い物であり、ちょっとした投資になるし、または投機の場合だってある。アート株として所持している人もいるし、ちょっとした資産でもある。 アートに価値があるか?観る人によってだいぶ違ってくるだろうし、個人的なものであろう。その美術品を所持することで自分のセンスを磨くことも可能である。勉強という意味もあろうし、権威を示すものにもなりえよう。 誰もがわかる絵というのは風景画とか静物画かもしれない、そこからちょっとハイセンスに行くと抽象画があるかもしれません。美を磨くのは大事であるし、そういった名画に出会うことも美の鑑賞修練が必要なのであります。 描く方も訓練しているが、鑑賞者も趣味としても修練が必要なのであります。 音楽もそうだし 絵画もそう 酒もそうであるし 食事もそう 美を知るためにはいいものに出会い体験して美のソムリエになっていくことで美というものがわかってくる。ある意味において鑑賞者は鑑定士なみの技量を身につけることも大事である。そして批評できるようになれれば達人になれるだろう。 どうあっても、アートはアートであるためには鑑賞者や展覧会にくるサポーターは大事なのだ。あなたのアートが理解されるかされないかはこの多くの人たちを相手に美を提示し問いかけていくのであります。理解されようがされなかろうが美を提示して問いを与えればいい。完全にあなたの作品が理解されるかどうかはわからないが、中にはわかってくれる人も

「美について考えてみた1」

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  「美について考えてみた1」 美学について考えてみようと思います。その考察をこの文章でやってみます。これは何回かに分けて発表しようと思います。この美学という問題自体が古典的なテーマかもしれませんが、あえてやってみるのもいいかと思いました。 さて、美とは何か。美、僕にとって美は女かもしれない。女は美しくある。花も美しくある。自然の草木も素晴らしく川の流れの音も綺麗で心が清まる。 美は、そういう意味でいろいろなところにある。それは人間本来知っているものなのだろうか。だとすると美は生まれる前から人は知っていたことになる。美は後天的のものもあるかもしれないが、基本、人間は先天的に美を知っていたのだ。 時代認識もあるかもしれないし、時代の雰囲気によって美も移ろい行くかもしれない。しかし、変わらない美の可能性もあるのではと思うのだ。 私たちの住む、地球は美で満ちている。これは普遍的であるがゆえに美の根源であろう。あと、男が女が好きで、女がお金や身を着飾ることが好きなこと、これは変わらない生命活動であろう。 美とは、それは広がるほどその関心が宇宙大にまで広がっていく。ゆえに、かつて美学講義をしたヘーゲルも自然美を考察に入れないで芸術作品にだけにしぼって考察して学生に講義したのだ。 美ってものは個人差はあるのだろうか。それは多分、性欲に関係することもあろう。今はジェンダーという言葉が流行っていおて男と男が結婚したり、女と女がまぐわったり様々な性の自由が可能な時代になった。自然な性関係は否定されて美の感覚も自由になっていることも事実なわけでそこで普段、我々の使用している道徳観念も古くなり新しく変えねばならない自体にあるのだ。 そこで、美の感覚もやはり変わってくる。芸術においても美は時代が代わりに変化して普遍的なものがアップデートを続け移ろいゆくのだ。いたってオリジナルでないとこの変化の激しい時代において流されて混乱していくかもしれない。 美はやはり移ろいゆくのは本当のところである。では我々は何に美を見出していけばいいのか。これが変わらない美があるとすればあるだろう。それはおそらく本能の部分だろう。生命の質というか生理的なものはどうあっても変わりづらいし変えられない人間の肉体のテンプレートである。 他のどんな部分が変わろうとも本能の美は変わらない

「パリスの審判」 作画・本多裕樹 サイズM80号

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  「パリスの審判」 作画・本多裕樹 サイズM80号 天空からギリシアの最高神ゼウスの使者がやってくる。手に持つは戦いの壺であり花が生けられている。光が天の使者であるケルビムは行く。 アフロディーテ、アテナ、アルテミス。 この女神たちは戦いの証が必要が問い相談する。幸運にも女神たちは開戦に乗り気ではない。その戦いの錫杖にも同等の壺をどうお返ししたらいいかと思考を巡らしている。   しかし、アフロディーテはその戦いの壺を受け取ろうとしていた。それをアテナも興味を抱き、出かたを待っている。 天空において啓示は安易にやってくることはない。何かを感じ取り、自分のやるべき ことを思い巡らす。 ケルビムは花を捧げてアフロディーテに美を高らかに褒め称え、勝利をもたらした。 美しくあることが勝利と言えるのだろうか。この女神たちの間では美が何よりの誉であり、戦いも美で完結したのだった。 アテナはアクリロポリスに権威を持ち、そこにあって守護者になった。 アルテミスは天空にあって地上を指導した。 三人の女神に美の芳香が与えられ、その功徳でもって役目を果たしたのであった。

「花咲く散るに」 詩 作・本多裕樹

  ある詩人がいました 若き日にはどんどん言葉が湧いてきた 今は、壮年となり その霊感も少なく あるとき書けなくなりました 詩人が言葉で詩を語らなくても 空はいつも詩を奏でている 周りを眺めればあらゆる草木が風にそよいでいる 花は美を輝かし 詩人が語らなくてもこの自然に歌はある 花はいつか枯れる 草木もいつかはその命を大地に還っていく 詩人もそうであり 花咲く時もあれば 枯れて自然に還っていくのだ そう、それでいいのだ いつまでも才能があるわけでない 特に天才に限って言えばピークはある 月下美人のようなものだ 花咲くのはある意味ミラクルであり 誰にでも咲く花ではない 人の一生はそんな華やかな時代もあれば ひまわりのように夏燦々ときらめく花も 夏が終われば死の園になっていくのだ 一瞬だけど咲けばそれで成功であるといえよう 君の人生においてもきらめく時がある それを維持する者もいれば 花火のように大きな花を咲かせ散ることもある 運命の輪廻はめぐりめぐって繰り返すのか それとも終わり他のサイクルに行くのか ピークの終わりし人には また、こう自分に言い聞かせればいい 新しいことにチャレンジして また、小さな種を育てて花を咲かそう そういう気持ちで行きたいですね

活動開始1第一声

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  活動再開1第一声 しばらく文筆をしませんでした。ちょっと休止していろいろ人生を考えていて、電子書籍も出版停止にしてしまいました。日々を送りつつ考えに考え、人生に苦悩していましたが、ようやく凪になった感じなのでこうして文章執筆を再開し、絵も描く習慣もつけました。絵は毎日は描いていません、最近やっているのはラファエロ、ミケランジェロの模写をしています。ああ言った神ににまで達した絵を模写していると大変勉強になります。細部まで丁寧に描かれていて勉強の対象にするにはとてもいい感じです。 さて、最近の私の課題ですが、文筆を再開しなくてはならぬことです。こうした雑文もいいのですが、また詩とか書けたらいいなと思います。今日は一編書いてみるのもいいかと思います。 ようやくやる気になってみたのですが課題がけっこう山積みですね。まあ、それも楽しみではあるのですけどね。 絵はどのように考えているかですが、階段を一段一段と上がらなくてはならないということです。自分の絵画作品はいわゆる下手ウマの部類なのですが、本物の絵を描けるようになるためルネサンスの巨匠の模写をして修練している感じです。まだ、結果を出せていませんが、10年後くらいには結果を一点でもいいので名画を作ってみたいと思っています。僕は現代アートの考えではやっては行かない感じになると思います。わりとエコール・ド・パリとかルネサンスの態度でやっていきたいと考えています。 もちろん、大好きな抽象画も描いていきます。 文章の方は電子書籍の整理や校正をしっかりやってまた世に出す感じです。書きあがった作品をすぐに出版していましたので少しアラがありましたので整地してより読みやすくより心にグッとくるような綺麗さで校正をしていく感じになります。 村上春樹先生は仕事に関して手を抜いてはいないという発言を聞いたことがあって、僕自身の職業においてもそれを徹底しています。文章にも絵にも手を抜かないようにしたいですね。でも、絵の場合は手抜きに見えし作品でもそれが美の可能性になったりしますのでアラも美になることもあります。 ここまで書くのに原稿用紙2枚目ですね。これを書いている現場は喫茶店です。いい場所で文筆するのは気分がいいですね。休日にカフェに行くのは僕にとっては趣味みたいなものでありますので、けっこういい感じです。コロナ