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11月, 2019の投稿を表示しています

疲れ気味、それでもやっていますよ。アートな生活を!

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今日もこうして書くことになりました。まあ、なんていうかあまりネタはないのでありますが書いています。 まず、書くという行為に意味があると私は思います。 本を読む、これは勉強をしている事になる。書を読む、これは重要な学問だ。 そして、書くという行為はそれ自体が学問していることであると私は思います。 書くと言う事は大事だよね。少なくとも僕はそう思う、このような雑文であってもね。 この原稿用紙を書ききることも大事だし、達成感が湧くよね。だいたい原稿用紙二枚くらいだ。それを万年筆で書き綴る。すごくしんどいけどたのしい。 今日、あるコミュニティーに参加して話をしてきたんだけど、たのしんでやることを教わった。 その人は頭の中での行動がすごくいろんなことを考えている。しかし、実際にはあまり実現していない。でも、行動して実現していることもあるのだ。まずは、思うこと、考えることから始めるのだと思いました。 一つの行為にはさまざまな内容があるのかもしれない。 思う、即行動の人はいない。即行動には前もって準備していることがある。そういう意味で即判断、即行動には、アスリートのような瞬発力がいるし、普段からトレーニングをしている結果だと言えよう。 普段からなにか積み上げていれば、判断、行動も早いだろう。それは訓練された人であるからだ。いつもいろんなリハーサルやイメージでシュミレーションをしているだろうし、練習に練習を重ねて試合の時には瞬間の判断が可能なのだと思います。 まあ、わたしのこうした文章を書くのもそうかもしれません。私の場合は仕事で情報伝達のための書類作成とか企画書を書いたりというより、本当に文章を書くのが好きで好きで仕方なく書きまくっているだけの人でありますから、趣味であり、たのしい遊びでありますので、真剣に仕事でやっているわけでないのでいくらか気楽にやっているのが現状なんですね。 なので、遊びであります。 でも、遊びって大事だよ。たのしいし、気分がよくなるしね。 僕は絵なんかも描いたりしますが、これもたのしいよ。地味な仕事だけど、まあ、文章を書くのも地味っていえば地味かもしれませんね。まあ、地味な事が好きなのかも

芸術もまた価値観であり宗教的可能性をもっている

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絵を習うって喧嘩になる事がある。作家同士かならずその芸術性に対立してトラブルになる。どちらかがおさえなくてはならない。どちらかが無にならなければならないのだ。 芸術はそれぞれたくさんの人がいるがそのたくさんの人がそれぞれ宗教的な信念をもってそれは芸術という宗教であり、個人個人がもっている芸術という価値観でケンカする。闘争するだろう。 だから危ない。かならず喧嘩する。それも個性の強い芸術家はね。 わたしは昨日、手紙をもらった。それはあなたにアートを教えます。あなたに裸婦デッサン会に参加してほしい、そして、わたしの傘下にはいりなさい。弟子になりなさい。指導してあげます。あなたの絵はマチスに似ています。マチスの画集を見せてあげます。それで感動して、そのような絵を描いてみませんか。 という失礼な手紙をいただいた。でも、その人はわたしを初心者の画家と思われている。画家でなく、趣味でやっているふらふらした絵描きさん、まあ、怒ります。しかたないかもしれない、その程度の絵しか見せられなかった私の責任だ。そんな傲慢な手紙に、傲慢な私が受け取るのだから怒りがこみあげてくるわけです。 しかし、これはチャンスと思っています。普通の人に見えると言う事は普通になるチャンスであることは言えると思います。私は自分ではものすごい価値を認識している。それが傲慢の原因であるが、一度市井の人になることも大事なのではないかと思いますよ。 というわけで、デッサン会には参加するかもしれません。でも、他に予定がありますので第一回目は断る可能性は大であります。 でも、なぜ今さら裸婦なのだろうか。女性が生まれたままの姿になってその周りに絵を描く人たちがいてなんか絵を描く。ちょっと理解できない。確かに私も美術学校時代にはそんなことはあった。でも、なぜ現代アートが美術の主流になっているこの時代にわざわざ裸婦なのかちょっと理解できないところもあります。 私に友人に裸婦を描いている人がいますが、それはトレーニングでやっているそうだ、なぜそこまで裸婦を描き続けるかちょっと理解できないところがあったりします。裸婦は美しいのか?なぜ、裸婦、なぜ、そんな問題だ。 裸婦、これは絵画の伝統らしい、しかし、意味があるのか、ないの

述回12

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今日もこうしてはじまりましたね。今朝はいつもの 食パンにあんずのジャムをつけたやつ はちみつのヨーグルト ブレンドコーヒー ハム一枚 みそ汁 でした。 出勤して考え事をしていた。昨日、はがきが届き裸婦デッサンをしないかという通信が来た。 裸婦か・・。 裸婦をデッサンして何がたのしいのだろうか考えた。ただ、裸の人間を画用紙に鉛筆で描くだけ。しかも余計な指導もはいるのだろう。ストレスでしかない。休日に勉強とかかなりしんどい。 できれば参加したくない。でも義理ごとゆえに、しかも、付き合いってやつだ。 しかたないと思うが、できるだけ、参加するようにスケジュールを見てみようと思う。 ていう感じで、今でも美術の世界では裸婦は通用するか。最近、モディリアーニの裸婦が高価格でオークションで落札したそうだ。意味があるのかないのかわからない。 私の友人でも裸婦に執着して毎週描いている人がいるが、実際、意味があるのかわからない。 裸婦を描く意味がわたしにはよくわからない。なぜ裸婦なのか。正直つまらない。 私も学生の時があって裸婦とか懸命に描いていた。勉強のためにね。 でも、いまさら勉強はしんどい、休日は休みたいし休養をとりたい、自分の時間を大切にしたい。 あと、私は教わるのがきらいだ。師弟関係とか苦手で、いろいろごちゃごちゃ言われるのがストレスたまる。 デッサンを教える先生からしたら信者獲得というか生徒を従えたいという欲望もあるのか、自分が権威者である事を高めたいのであろうか。 そういう所もあるだろう、生徒があればお金も入る。お金を搾取できる。そういうこともあろう。 いやだね、でも、付き合いも大事だ。 断った方が身のためか?そう思うきょうこの頃。 つまりだ、実際、僕は絵を描くのが苦手なんだ。絵を描きますけど、大勢で描くのが苦手だし、絵を描くって本当にプライベートなことなんだ。 しかも、喧嘩してしまうし、僕はね、先生と喧嘩もするし、調和を乱すそういうこともある。 裸婦デッサン会は断る事にします。 それがいいと思いますよ、けっこうしんどいし、デッサンとか集団で描くのもしんどい。

健康は大事ですね。そんな日常の雑談1

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今日もこうしてはじまった。何か語る事はあるのだろうか。今日は友人の腹痛を看ている。といっても本当に見ているだけなのだが、ただ私はいるだけであります。 いろいろ義理ごとに呼ばれていたのですが、いかなかった。まずは私自身の精神がゆとりをもち ゆっくりリラックスしていないと休日を過ごせないのです。みんな活動的だなと思うよ。平日に展覧会をやってみんなそのパーティーにいって酒を飲みワイワイやってそんで次の日には仕事なのだ。ずいぶんな体力だと思うしうらやましくなる。 そもそも、わたしはあまり肉体的には強くなく疲れやすい体質でしかもそんな元気もない。今日もゆったりすごしている。とくに華美なことはしていない。昼食はパン二個にコーヒー牛乳だ。わたしは日向にあたりながらこの文章を書いている感じです。 最近、なにか仕事以外で生産的な事、またはアート活動をしたであろうか。やったとすれば趣味の書をたのしんだくらい、あと、本を少し読んだことかもしれません。 それほど大したことをしていない。そんな日常です。でも、今はソーシャルネットワーク時代です。その世界界隈ではみんな華やかにみえるし、ああ成功していらっしゃるのだなと見ています。みんな体力あるなすごいなと思いますよ。わたしにはできないことです。 どうも、みんな華美だ。お金もあるし、時間もある。酒を飲む、美味いものを毎日食べ、いいねがいっぱいつく、それで贅沢なホテルに泊まり美味そうな料理を味わう。それが日本の社会の一般層の経済状況なのかなと思ったりもします。いいねじゃなく、いいなに思う。 いいね それは本当にいいねだ。そしていい値だね。 でも、僕は僕なりに生きている。私は美術品や骨董の収集をたしなみ、書道を書くのをたしなんでいます。書道はいいよ。そんなお金もかからないし半紙は100円ショップで買えるので無尽蔵に書くことができる。いい一字ができたらやっぱりうれしい、そして、それは思い出となって技術にもなる。字がうまくなるのがかなり嬉しい。そういうたのしみもある。 あと、わたしは独身者ゆえに自由な時間がたんまりある。しかし、そのほとんどの時間が体力を回復するための休養になってつかれをとるために消費していく。先週、ずっと薬用養命酒に関心があって買おう

「ギャラリー恵風 ユフ・イマージュ展の池田優子画伯の絵を見て」

トルティーヤを焼く女 作:池田優子 画材:キャンバス・油彩 サイズ: F30 号 今週、展覧会に行った。仕事の帰りつかれてたどり着いたギャラリー恵風、茶を飲み、その場所へ向かう。新越谷を出て徒歩五分くらいでついた。池田優子さんの作品をみた。その一作、「トルティーヤを焼く女」これは色がきれいだ。色は本当の見た色を使わず想像によって写し取られた宝石のような色彩で輝いていた。トルティーヤというメキシコの民族料理をつくっている厨房の中の絵で壁が緑色に光っている。実際の現場はそのような色ではないだろう。ということは全体の色は池田さんのアーティスティックなセンスで表現された絵であることがわかる。正面に女性がトルティーヤを焼いていて窯に火が出ている。火がめらめらときれいだ。後方の男性も小さく遠近がでていて働いている。この絵はデッサンの段階から画家の創造的な造形でかたちつくられていて女像もたくましくも美しい彫刻のように立派に描かれている。そして画面全体が宝石のように輝いているのがとても印象的だった。見たままを描かず作って行く、そして、クリエイトするという行為がとても学ぶべきものがあるし、宝石のような油絵を描く、全体の輝きにも強い感動を受けた。モデルになる想像の画面イメージがあってそれをまた宝石に変えていく制作はまことにアートだと思いました。仕事を大切にしてそれを輝かすという行為に美しいものを生み出す、モデルを美にもっていくということはアートにはある。それはアーティストでもなくても、私たち自身が芸術を感じたものによって、私たちも自分をアーティストになり、普段の仕事や家事、学校の生活にも生かせるものがあるのではないかと思いました。さらに世界を宝石色に変える世界創造にわたしたちもできるなにかがあるのではないか、と感じたのでした。 アルブリヘス・ミーティング 作:池田優子 画材・キャンバス・油彩 サイズ: F40 号 この絵は色彩の魔術、この池田優子女子のこの絵には魔法がかかっている。色彩が広がり空間をいろどり空気感をギャラリー全体を光らせていた。この絵に描かれているもの、モチーフはメキシコの民族工芸品のおもちゃやウミガメとか鳥のトーテムで絵の隅の東西南北を守護し、中央に鳥のトーテムが守っている。一見、色でひろ

制作日誌98678番

今日も昼がやってきて明日も来る。わたしは今日なにを考えたか。 実は言うとそれほど考えていない。若いころのようにしんどい問題を集中して思考し自分なりの答えを出す体力というか脳みその力が無いことを実感する。 では、アートのことは? なんていうか私の絵画制作って基本、 DIY なんだな。工作なんだ。図工といってもいいし技術家庭科みたいなものだと思う。 アトリエには絵がたんまりあってこれ以上の制作はできない状態にあります。なので、作品を作る時も、紙にしたり、ロールキャンバスをカットして木枠に張ってそんで展覧会なんかに発表します。そんで展覧会が終わったらキャンバスに描いた絵ですね。保存するためにキャンバスをはがしてまるめて保管します。 木枠は P 30号、 M 80号、あと額、紙は掛け軸とか、 B4 サイズの画用紙、あとロールの水彩紙、そんで B1 の額、あと、画材はパステル、アクリル、色鉛筆、ペン、インク、筆、木のパレット、水、紙を画びょうではっつけるための F 60号のパネル、そのくらいか。 アトリエは自宅の 6 畳間、書斎兼寝室 貸しアトリエはある公民館の一室を使う はがきサイズや B4 サイズの絵を描く時は、スタバとか喫茶店、 まあ、そんなこんなんで倉庫の限界が制作の限界か? また、時間の限界が絵画制作の限界か? まあ、いろいろ。 木枠を使いまわす。木枠は一つのものをまた使う。そんでキャンバス(画布)を張る。釘と鈍器で、あとキャンバスをはさむやつで引っ張って釘を打つ 絵を描いて発表して、次の展覧会のためにまたキャンバスを木枠からはずす。 それはアクリル画の場合です。 水彩とかパステルは、紙をロールであるのでロールペーパーから額に合わせてカット、そんでパネルに紙を画びょうで貼り付けてパステルとかペンとか水彩で描く。展覧会に出品して終われば額からはずしてまた新しい作品をつくるために、その繰り返し。 けっこう絵を描く前に工作というか今はやりの DIY をやっています。 絵描きの友人で DIY が苦手でも絵を描いている人もいますので、かならずしも DIY は必要じゃないかもしれません。 でも、なにかな、そんなめんどうなことしなくてもいい人もいます

制作日誌3098番

制作について書いてみます。最近は、あまり絵を描いていませんね。毎日はつかれる。若い時は毎日ガシガシ描いていたのですが、今は、そういうわけにはいかなく、疲れは次の日の仕事に致命的だからです。 では、最近の絵画の衝撃、 小林孝至はすさまじき天才だ。これは真似できない。彼のようなやりかたで描くとわたしの脳みそと体力がもたない。しかし、小林君の狂気から生み出すセンスは真似ている。それだけを摂取している。自分の絵画制作の筆使いとかテクニックを小林君のやりかたを使う、思い出す。小林君のような天才は天才を維持し続けている。だから、すごい。 加藤亮さんは、ピカソの後継者だが、彼も天才だ。神秘的な究極の境地にいたっている。神々しくある。加藤君は今、作家活動休止中であるが、また出て来ると思う。出なくても後世のこると思う。どこかで発見されて事件的なアート界の衝撃になるだろう。 安東伸輔さんは、親友である。けんかばっか、論客であり、お互いに成長しあい、刺激しあい共に成長し闘っている。ばかなことを言い合って遊んだり、酒の付き合いでも議論のしあいでも刺激しあっている。彼からは、ほぼ同等の絵画技術であるのか、敵とかでなくお互いに成長するためのライバルだ。そんな友人もいていいじゃない。この安東さんお陰でけっこうたのしい青春をすごせている。40歳近い年齢の友人同士で遊興をともにしてお互いに研鑽し合い成長の試金石だ。安東君からはほとんどすべての絵画的な考え方を吸収し会話の中でも共有している。おそらく、お互いに友情がつづくためには文芸や美術、アートをやっていないとここまで10年の付き合いもないだろう、芸術をやっていないと私は安東さんの友人でいられないだろう。それは安東さんもそうであろう。芸術の研鑽をやめたらおそらく友人出来る事が維持できないし成長もできなくなると、お互いに必要と感じなくなるだろう。ゆえに、好敵手でなく、成長するための親友関係でありライバルなのだと思う。 谷神健二さんは、私の初期の絵において目標にしていた。伝説の画家だ。現在、個展とかグループ展に行ってお会いして、この人を越えなくてはいけないのだなと思いつつ、だったが谷神さんは柔和な人ゆえに優しい人だった。まだ、谷神さんの境地の完成度の高い絵を制作する時の試金石にしている。たと

制作雑談、制作の思考、ギャラリーkナタレ展の制作について

今日は休みです。それで定期的な診察に病院にきています。まあ、病気持ちではありますが現在は落ち着いています。でも、一生病院にかよわなくてはならないので生活の習慣の一部にはなっています。 まあ、今日も何かを語っていきたいと思います。さて、また美術のことを考えてみたい。 私は、今、どのような制作にのぞんでるか?こんど12月にギャラリー K でナタレ展というのがあってそこに私も出品する事になっています。まあ、クリスマスと言う事で B4 サイズの画用紙にペンでキリスト教系の作品を4点制作しました。それは9月くらいには完成させています。そしてもう一点 B1 サイズの絵を描く予定になっていてそれは明日に描きます。この B1 サイズは勝負の絵になりそうです。 それは、ナタレ展に野瀬昌樹さんが出品する事でかなり私の中でゆらいでいます。 野瀬さんはわたしにとって好敵手です。あいてはそうはおもっていませんが、私個人として野瀬さんをすごい人と思っているし、作品も感歎たるものがあって一緒に出品する事でわたしも今回の展覧会で勝負できることをとても楽しみにしているのです。 野瀬さんに勝ちたいというより、何なの試金石、成長できる画家であるがゆえ、私も頑張ろうとしているのです。いわゆる私だけ野瀬さんをライバル認定していると言えます。 B1 サイズの画用紙にバステルで塗り込めます。 日曜日、朝から夕方まで頑張ってみようと予定しています。 それは明日です。 本当は義理ごとというか、わたしが教祖と仰ぐ画家がいてその人から美術館の招待状をいただいていたのですが、制作を優先させていただきました。 なにかな、描かなければならない。そのような衝動、野瀬さんに負けないくらいの絵を描かなくてはならないという意欲、これが冷めないうちに制作しておきたい。そういう思いであります。 B 1サイズの絵に何を描くか? 「四福音書の守護女神」を描きます。 それはわたしの作り出す不可能性の怪物かもしれません。それはキマイラかもしれません。 だって、そういうのは聖書にしるされている事項ではないからです。私の作り出した宗教芸術だからです。そりゃ、誰も見たことな