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4月, 2021の投稿を表示しています

「 墨象を日本画という文脈で」

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「  墨象を日本画という文脈で」 墨象というかそういうのは展覧会には避けられることがありますが、これは日本画としての文脈でいけばセーフではないかと思った。そういう方向で作品制作してもいいかも。 僕は、かつて昔、絵画というか油絵をやったり水彩をやったり時にはフレスコ画をやったり様々な技術を使って作品作りをしてきましたが、今、そのような力を使うような作業ができないので、文人のジャンルに移行しつつあります。 もう、あまり頑張りたくないし、墨の方が自分の資質に合っていることも最近知ったのです。 書をやったり 書画をやったり それは日本画として通用するのではと思うに至ったのでした。 適当なのも大事であんまし頑張らないことも大事です。趣味は気晴らしということもあって制作していて楽しくあるのが大事であるからです。 上を目指そうとか思うと苦しくなるし、かえってプレシャーになってつまらなくなってしまいます。趣味は趣味でそれなりに楽しいことが大事だと思いますね。 あまり真剣にならない方がいいかも。気が乗った時に趣味を楽しんだ方がいい。遊戯しているときは悦に入って時間も忘れるからね。そもそも余裕がないと芸術はできないと思う。暇が芸術を創造する原因だと思うよ。まずは暇人にならないといけないね。余裕は大事だと思いますよ。 人は多くのことはできないですね。一つ二つできればいい感じです。多くを望んではいけないようです。二君に仕えずと言いますし、天は人に二物を与えないと言います。何かしたいのなら暇にして何か集中したいことがあればそれに取り組めばいいと思います。 私の知っている人で言えばその人に彼女ができて絵が描けなくなり彼女と別れて絵を選んだ人もいます。けっこう有名な画家だったと思います。 僕ならどうするか、彼女を得るには確かにハードルがキツイですね。お金がかかるし、責任取れない。だから恋愛はかなり無理ゲーであることがあります。もし、彼女を得るのであれば全てを捨てなくてはならないでしょう。それくらい人生の時間も、エネルギーも、仕事量も、資金力も消費していくのです。高い買い物であり、お金の無い人には無理なのですが、命がけですよね。 暇か、それは大事だ。世界一貧乏な大統領が恋愛するくらいの余裕は大事だと言っていた。そうかもね。最近、僕は余裕がなかった

「あまり真剣にならない方が」

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  「あまり真剣にならない方が」 あまり真剣にならないことだと思います。あまりにも真剣だと楽しくないし、悲壮感がでて苦しくなりますよ。自分にとってそれは良くないと思います。 自分をいたわっていきたいですね。 人生には勝負しなくてはならない時もあると思うけど、誰でもそれはあるがゆえにその苦境が自分を成長させてくれる。いつも成長も困るのは事実です。 私は怠け者です。本当にそうでなるべく気を抜いています。100%は無理です。60%でいいと思っています。普段からそうです。 かつて、僕は絵を命より大事なものと思って精進していました。それからしばらくして自分は絵から離れ、自由になった。そんな真剣にやるのは楽しくないのですね。ゴッホやピカソになろうものならそれは命を差し出さなくては無理なのはわかるから自分もそのように絵に精進したけど、僕には無理だった。それだけ。 でも、そんな無能の私にも本気になることがあるのだ。一年に一回開催される国立新美術館で日本アンデパンダン展があるのだけど、そこに出品する絵には本気で挑んでいます。それでも力不足は否めないのですが、その展覧会だけは本気で取り組んでいますね。制作に。 私は40歳になります。それであと10~20年は時間はあるかもしれませんね。その間、一発花火を上げたいものと思いますが、それを書画に込めてみようと思っています。 なんていうか努力とか進歩発展とかもうしたくないし、できないですね。すでに老害になっていてじじいになっているのです。そんな中、書画は自分にとっては楽だし安易にできるので合っていると思うんです。 別に、時代をリードする必要もないし、売るつもりもないし、ビジネスしたいわけでもない。ただ単純に好きな趣味をやって遊びたいだけなんですね。 疲れているし、あまり力がない。それでも生きている。最後は美しくあらねばと思いますよ。死ぬその日まで仕事はしていたい。職業に従事していつつ死んでいけたらいい。それは誉だと思うよ。ただ、暇して生きているのはもったいない。なので、必ず死ぬ人生ではありますが、死ぬ日まで生きて完遂すればいい。 真摯に生きるのもいい。怠けて道楽に生きるのもいい。どちらも大事だね。青春もすばらしいし、老いていくこともすばらしい。人生をそんな欲張っちゃってもいいし、断捨離も大事だ。人は裸

「書画へシフト」

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  「書画へシフト」 最近は、書画に移行しようとしています。そちらに何か楽しみを見出している感じです。 楽だからと言う理由もありますし、書や書画を書いていてやっぱり楽しく快感なところがあります。書画は日本画の部類に入ると思います。展覧会の時は日本画の部門で出品するのが合っているのではと考えたりします。 まあ、趣味人であるとも言えますね。 多少、限界を感じたりするのです。アスリートが30歳を機にして引退するのがよくわかります。画家は一生できる生涯学習であると思いますが、展覧会のたびに次はもっといいものを制作しなくてはならないと言うプレッシャーはあるもので、もちろん訓練も修練もしなくてはならないのです。 いっそ気楽に描いてみたいという遊びをしてみたい衝動に心動かされて趣味人としての美術もあってもいいのではないかと思うのです。 気楽に生きた方がいいし、楽しく遊んで道に遊戯していればいいのだよ。それが幸せならいいじゃないのかな。 芸術は戦い、時代を切り開くための勝負事をしている芸術かもいる。そういう人は時代をリードする高き志を持った尊い人たちだ。 実は私もそうなりたいと思って制作に励んだ時代があったけど疲れてダメになってしまったのだ。個人差ありますよね。私の先輩筋で時代をリードする芸術家を知っている。たいへん立派だし、彼を目の当たりにしてああはなれないことを肌身で感じました。 僕は隠退して文人になったのです。いたって道楽に生きて道に遊んでいるのです。そうしたら楽になり重荷も消えていってしまった。不思議ですね。それくらい時代をリードするというのは相当なエネルギーを使うのを実感したものです。 もちろん、僕は労働もしていますし仕事もしています。そういうことで遊びに楽しみ文化活動みたいのもやっています。文人は必ずしもそれでご飯を食べるのでなく、仕事をしつつ余暇に書画に楽しみ読書をたしなむというプライベートで遊ぶ人です。趣味としてのアートかもしれませんね。こうし文章執筆も遊びです。 特に書くのは面白いもので自分の思考が整理されていきます。書画であれば快感を味わうことができますね。 書画を見ている時が一番アート鑑賞の中で昔から好きだった。絵画を見ているより書を眺めていた方が好きだしきっと合っているのだと思う。昔からそうだった。東京国立博物

「自省集」

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  「自省集」 今、この年齢になって随分なおじさんになったと思う。若い頃のようなエネルギーは出せないですね。詩もどんどん出てくるものでないし、年相応な生き方が今、求められている気がします。 社会的責任があると思います。それはしっかり守らなくてはなりません。例えば仕事するとか文化活動をするとかですね。あと、私は妻子はいないのでその責任はないけど妻子ある方はそれなりの責任をもって家族を守らなくてはならないでしょう。 太宰治の年齢を越えた今、私はどうするか。芸術は芸術でいいとして趣味でもいいので続けていく。この趣味というものも文化活動と言ってもいいでしょう。なので、多少、自分に才能と技術がありますのでそのタラントの責任もありますがゆえにアートを義務的にでもやらなくてはならないのです。 それもまた責任です。 もう、自分だけの芸術ではないと思います。ある意味、公共的であり、僕の作品で勇気をもらう方もいらっしゃのでそのためにも多くの人たちの精神的な高まる芸術としての意味がありますので生きている限り続けなくてはならないのです。 たとえ、それでアートでご飯を食べていかなくても文化活動に公共における役目があるのは事実です。 あと、詩についてですが、僕の詩は罪のポエムで、エッセイもほとんど業のあらわれでこれがそのままであったら犯罪者になってしまうでしょう。それを清算するくらいの本を発表しないと進歩発展しないと本当に牢屋の中に閉じ込められるくらいの内容であります。 そのポエムやエッセイは僕自身の脳内の業であり、それを本に吐き出した汚れたゲロが詩文になったのです。 いろいろ犯罪者の可能性が内包された私であります。であるならそれを超えるような作品が必要なわけでそれも先にどんどん進んで行くことで罪は消えませんがそれを発展させて光を見出せることは真実なところかと思います。 人の頭の中は罪の箇所があると言います。それを表現してしまったのです。悪や死を真摯に考えていたということです。誰もが罪を背負っていることをやはり知ることも大事だと思っています。 私も罪を認めたところにあって、自分に寛容になれることもあったし、何より自由に少し近づけたのが効果的であったように思います。 自分の心の中に確かに悪があった。それは本当のことです。今も、多少、悪心があるか

「無用の長物に利あり」

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  「無用の長物に利あり」 私はつくづく子供だと思う。40歳になってまだ子供っぽいのは反省でしかない。あまりにも馬鹿のようでもあるが実際愚かなものなのだろう。 でも、それで困ったことはなかったりする。まあ、でも無用の長物であることもあってあまり無理なことは要求はされないことが多い、しかし、商売人からすれば馬鹿からお金を取っておこうと言うこともあってそこは気をつけなてはならぬ事項でもあります。 恋愛も幾度かしましたが縁がないのか離れ去っていったりしていきますね。僕もそれほど責任取れないので頼りないのは本当のところでそこもチャイルドマインドなところは修養しなかったので恋愛する資格がないのは前々から知っていました。 自分は何か最近、アートなことをしかたっかのですが、僕は文人にシフトしよと考えています。書画骨董や茶道具などを作ってみようかと思っています。書画に凝ってみるのもいい趣味になりうるのではと思っています。 前々から掛け軸作品は作ってはきましたが、本格的に文人活動してもいいかもと思い、何らかの表現を開始しています。 それは最近のアートのことかもしれません。 40近くになっても子供であるのはいくらか問題ではあろうと思いますがそれで愚者としての生き方はあって幸福に生きるのが一番の処世術になっていきます。 例えば、美味しい料理を感謝して食べるとか、お酒を飲むとかでけっこう人生が満足することだってあります。そのために生きているとさえ思えることがあります。日々の労働や仕事、活動が報われる時間でありましょう。 これからの文人生活においていかに幸福に生きるかが大事だと思い、あまり無理もしないし、いかに楽しい芸術の創作をするかですね。無理せず、何も努力もせずに墨をもって掛け軸に書や画を描きに書き流すのです。そうするとけっこう楽しいものでお茶を飲みながら書画制作に遊ぶ感じです。 けっこう楽しいものですよ。あまり難しくないし、楽で面白いからね。あまり真面目にならなくていいし、道に遊ぶという境地になっていきます。 アートに関してもそうですから、無理しないで楽しく生きて仕事に励み、自然の中に消えゆくのがいいものですね。 芸術家の天下り先が文人生活だったりします。少なくとも僕はそうです。一生、第一線で芸術家をやっていける体力がありスタミナがあっ

「趣味人とプロ」

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  「趣味人とプロ」 しばらく風邪を患っていた。発熱がして38.5度もあった。コロナ、インフルA、B型の検査を受けて(陰性)の結果が出た。それで自室で寝ていた。三日くらい熱病に苦しんだ。今日になってようやく良くなった。 そうして、僕は文章と向き合っている。一文字も書けないと思っていたが自分が体験したことをただ綴っているだけでありますがそれでも書くものがあって書くことができるのは幸せなことだと思います。 将来どうしようかと思う。今の仕事にお世話になっていて本当に感謝しているので定年まで働くのかもしれない。そんな予感もする。僕は何がしたいのだろうか。そう問いかけて趣味でもいいので何かした方がいい気がするのです。自分はどんな適性があるのだろうか。こうして文章を打ち込むのが好きなのでそちらの表現活動もしてもいい。元々の絵の趣味の方を進めるかということも考えています。 僕は絵を趣味でやっているのだろうか?趣味かもしれないね。趣味でご飯を食べていくつもりは無いですね。一時期、趣味で活動してそれをもって商売しようと思っていましたが、その熱意は今は無くなっているのが現実なのであって、多分、例えば絵とかで一躍有名になって時代の寵児になっていくにはスタミナがすごい要るでしょう。そのエネルギーを何か他に使ったのか有名になる努力をしなかったのは事実です。そこは反省点でもあり過ぎ去ったことはもういいとして解決済みの問題です。 若いうちに勝負かけることであると思います。そこが分かれ目になっていくと経験から思います。 やはり、有名になるための努力や、商売に向かって行動していくようなそんな爆進していく炸裂した行動と知恵を発揮する人が本物になっていくのだと思います。 あと、僕の絵自体がそんな写実でなく、子供でも描ける下手ウマの作風ということもあってなかなか高額な値がつかない現実もあります。 つまり、趣味でいいという見解になります。さて、そういうことではありますが今は趣味でけっこう楽しくやっていることもあって、仕事となるとキツイ趣味ですが趣味は趣味であればそれは気軽でいいという自由さがあるのは本当にありがたいことと思います。 こうした文章の書き込みも楽しくやっています。やっぱり楽しくやるのが健康的でいいと思います。いわゆる文人の境地となっているのでありますが趣味

「続けること」

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  「続けること」 何があろうとも、僕は絵はつづけなくてはならないようだ。それを楽しみにして美術館や画廊にきて作品を観たいと思ってくれている人たちがいる。それはとてもありがたいことと感謝でいっぱいです。美術は芸能活動と似たところがありますが、作品をピュアな気持ちで鑑賞してくれたり、僕が頑張って美術に向き合い頑張っている様子を見てくれて周りの人たちが元気でいられるのは、それはそれで僕自身の役割であり役目であるその絵画美術に関してやりがいとモチベーションに繋がるものだと思います。 それで時々、嫉妬やねたみを買うこともあります。恨まれることだってありますし、そう言うのは作品発表して、芸術活動しているとそれをうらやましくなって攻撃したい気持ちもわかります。そう言う挫折した人の気持ちもわかります。仕方のないことではありますし、舞台に立てない人の気持ちもわかります。人はそう言うものです。なかなか祝福するのは難しいでしょう。自己疎外感に耐えるにはなかなかの辛抱強さあと、それを乗り越えるための強さと諦めも必要です。 挫折した人の気持ちもわかる必要があるのは事実なところです。美術もある意味、芸能人と似ています。芸事に能力です。つまりタラントでありタレントです。 そう言うことも考えつつ、自分の道を歩まなくてはならない場合がありますが、基本、僕は美術にとって僧侶的側面があって求道者みたいなところで真摯に絵画芸術に挑み、その活動の進め行く中で人生を描いていると言えます。そうなると余計なことも考えず日々を送ることもできるのです。どれだけ美術に対してピュアであるかが大事だと思います。 詩も書いていますが、デトックスが酷くて出版停止にしていましたが、また、再び出版しようと思います。僕の詩のあり方が自分の心の中にある呪いを吐き出していた感じでありそれは決し公共の役には立たないし、むしろ害悪であり有害図書であるのを僕自身も理解していたのです。しかし、そんな有害図書をまた出版する理由は何かというとそういう自分がカルマに苦しみつつも詩として美を表現していた事実は本当のところで例え悪文であっても読む人にとって意味のあることだと思いました。僕のそうした悪に悩む現実の経験は他の人にとって参考になる経験であり詩でデトックスし吐き出すことで僕自身の脳が清まった事実もあります。もし、僕の詩を読ま

「最終定理」

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  「最終定理」 自分の中で何かが完了したようだ。アートに満足し、もうこれ以上の進歩もないようなそんな限界もあるし、その先に行くことも可能であろうが、あえてそこには頑張って行く気持ちも無い。もう、そんなことしなくてもまっさらな自分でもいいと思えるようなそんな自然な感じに、そんなナチュラルな心境になった。 このような状態にあって初めて他人のことを考える余裕も出てきた感じである。今まで何で他人にあまり関心が無かったのかですが自分に課せられた問題が多かったからかもしれない。そういう問題と言うストレスが自分を成長させてくれたことを思います。 人は問題があるからそれを乗り越えようと頑張るものだ。その問題を乗り越えるとさらにまた次の課題が出てくる。その繰り返しであります。私も自分のことはもういいので他者のことに関心が行っています。社会のことやこの世の闇の部分とか他人のことなど、それをターゲットに探求して発表することはできません。個人のプライベートを公開するのはまた違うし間違いであることは僕もわきまえています。ただ、自分の問題以外のことを思考するのはとても新鮮で面白いように思うし、共感させられるどん底の闇にもまた人生の真実があるので、そこは興味深く、手を差し伸べることも大事になっているのがこの世界の真実であります。 しかし、その問題も解決不可能であり、他の個人個人の人生の問題であり、それは個人の問題で自分でなんとかしなくてはなりません。それが人生の真実であり学びであるからです。それに手を貸すくらいはいいかもしれませんが、干渉しすぎもまた相手の進歩や学びを阻害することになりますのでデリケートなことに思います。 悩むことはいいことだと思う。悩むことでそれは苦しくしんどく苦悩に満ち懊悩に苦しむだろうけど、それが生きていることなんだと思います。今、僕にだって問題があり、自分自身にもいたらぬことがたくさんあってそれを荒れ狂う馬のような自分を手綱で自制しているのが現実であります。ちょっと前の自分よりその手綱によってマシになっていると思います。悩むことは自分の問題であり、それは何としても自制しなくてはならないし、修養をなして自分の弱さを鍛えなくてはなりません。とても厳しい人生の課題です。 人はこの世に生きる意味は人生をもって学んでいるから、その学びを放棄することはいけな

「これから語るでしょう」

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  「これから語るでしょう」 僕には思想らしきものがあるのだろうか?思想はなんであろうか。 そこがわかれば僕にも思想はあるかもしれない。とりあえず、自分は何を問題に生きているのか。僕は何を問題に生きて、どんなことを伝えんとしているのだろう。こうやって文章を書いていることな何かしらのメッセージを公布したいと言う思いがあるからだろう。 僕の問題とは「美術」ではないだろうか。このことについては毎日、毎日考えている。美術は好きなんでしょうね、特に若い頃に美術を勉強してそれ以来ずっと美術と向き合ってきたのだよ。それは才能と言えるのではなかろうか。そのことについて考察している人生でもあるのだから、そうやっても皆が皆このように僕みたいに美術を考え続けるわけにもいかない。 たいていは大人になれば恋愛もして結婚して子どもが幾人か生まれその人生の一般的なテンプレートのまま生きて人生を学び社会に貢献して幸福に生きて文明の発展に寄与しているのがたいていの人たちであり、それが人々がいいと言う人生でなかろうか。 そう言うイメージを僕は思っています。 そうでない生き方をする人もいます。僕の友人では幼少の頃から読み書き計算をできるようになってサイエンスに興味を持ち中学高校、大学、大学院とまたそれからもずっと物理、数学の探求をして永遠とその道に精進しているのだ。そう言う学者もいるわけで、それは他の人では真似できない、いや、真似してはいけないのだ。 それは人の行ける道でないのだ。実に特殊なケースであり神に愛された人でなければ、もしくは呪われていなくては無理なのだ。 僕もそうで幼少の頃から美術に興味を持ちその道にストレートには行かなかったが紆余曲折しながらなんとなく美術を探求することになり、人の道を放棄してしまったのだ。なので筋金入りの美術家といえましょう。 でも、こんな大きなこと言っていますが実は実力は劣っていて上手くはなくかと言って巨匠のような作品が作れていないのが本当のところです。でも、やっているのですね。 今は、介護の仕事をやりながら美術と向き合っています。実は言うと34歳まで仕事をしていなくて、両親がもう定年するので就職したのです。今、就職して5、6年経つところです。まあ、いわゆる元ニートであったのです。ニートを続けられたのは一重に両親のおかげでありずっと美術に精進して高みを目指そうと懸命