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10月, 2019の投稿を表示しています

絵を見ることについて考えてみたよ

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絵について考えてみたよ 最近なにしているか?絵のことを考えている。絵の画面のことを、絵のその図を、 周りのアーティストにも質問したり聞いてみると、どうやら制作の前から図が浮かぶようである。 これは何かな美術家っていうのは見えないものを感じたり見えたりする。それはなんだか超能力者というか霊能者ではないかと思っています。 美術家はどこかの世界とつながっている。 それは SF の世界かもしれない または、神話の世界かもしれない まあ、ひとそれぞれ違う宇宙を生きていることもある。なんていうか、世界観というかどこかの次元とチャンネルを合わして、この現実のわたしたちが再現しているのが美術作品かもしれない。 そういう話を昨日、友人と電話で話していた。 アートをやっている人はそんな見えない世界を見て聞いたりして、それは第三の目でみるのだ。 詩人第三の目と呼ばれるものを開くのであろうね。思考したりする人でもその観念世界が見えてプログラムを作ったりして理論を作ったりしている。 美術家っていうのはきっすいの詩人か、霊能者か、超能力者か? まあ、そんなことを考えてみました。 この前、絵を見た。誰の絵かわからないけど、とりあえず展示作品をみまわって、何か得るものがあったのだろうか。絵は自分で認めないのしっかり見ないものですね。見るっていることはけっこうなにか神秘的な可能性があるのではないか。 認める、見る。そこには絶対の鑑賞がある。絵は観なくてははじまらない。じっくり見るのはその絵を認めて思考しているとも言える。 絵と、見る人。それは簡単であるがなかなかむずかしいこともある。いくら説得や無理やり見させてもピンとこないものはこない。 なぜか、 絵と、見る人が相互合意の上で成り立つというより、鑑賞者が絵を見て思考している事実をわたしは知っている。絵をただ見るのはカンタンであるが、絵を見てしまったらその事実を消せないのだ。どうしよもない、これが認めると言う事になるし、次の段階になると絵を見て思考する。それはその絵の内容を解凍し自分の脳内に電気がながれる。絵を見て考えているのだ。 鑑賞者もそりゃたのしめるだろうし、かんがえるだろう。そして、

ビエンナーレについて考えをしている。自主考察

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今、昼であります。昼には酒を飲みません。でも、酔えるものです。それは何? なにかに懸命にやっていると自然に酔ってくる。仕事も乗ってくるのですね。その乗るっていう状態が仕事のパワーになっていきます。それは絵画制作でも同じかもしれません。 今日は絵のことを考えたかというと、抽象画の世界を見ていた。抽象画を描くようになって具象画があまり描けなくなった。なんというか抽象画にはまってしまったといってもいいかもしれない。 一度、具象画の作家でも抽象画に移行するとその魅力にみせられてしまい、具象画を描かなくなる。しかし、私の場合は具象画はそんなすごくうまいわけではないがそこそこよく見えると言ってもいい。 この前の展覧会では具象が二点売れました。山の絵と海の絵の二点です。そのほかのにも抽象画を二出品しましたが売れなかった。でも、満足のいく作品であったことはいえます。 抽象画は売れるか。はい、売れます。 そういう絵が好きな人もいて、売れたりします。 シュールレアリズムの絵も売れたことがあった。 何かな奇怪なもの、不思議な世界の、観念世界が好きな人もういることは事実です。そういう変わった絵の好きな人もいる。 まあ、そういう意味で、アートは自由でいいんじゃないかなと思っている今日この頃です。 あの、ビエンナーレの件にいたってもいろんな側面からみえますね。御法度になったり美的な価値があったり、不謹慎だとか、少女の彫刻が美しかったり、ふくざつな気持ちになる美術作品であったと思います。まあ、美術館に展示されている以上、そういう美術の殿堂に展示されているので美術作品という定義で箱に入っているから本来的には政治的、国際的な世界から離れた美の神殿にいることですからね。まあ、美術作品として見て、その美術館の作品にはいろんな内容があるかもしれない。ざわざわするようなものもあるが、そこは神殿内でいろんなことはあるが、美術館の中にあればそこに展示中であっても政府とか国家が口出せない領域、聖域があると思うので、まあ、美術館という神殿はそれとして人々は礼拝しているわけです。政治が国家があれこれ言うのは本来は踏み入ってはならないところであると思うのです。 美術館という殿堂にやはり敬意をは

セザンヌ作 サント・ヴィクトワール山の感想

サント・ヴィクトワール山 1887年 ポール・セザンヌ(画家48歳)67 × 92cm コート―ルド・ギャラリー(ロンドン) セザンヌという昔の画家の描いた絵がある。むかしといっても本の100年くらい前の人だがセザンヌの絵は当時としては衝撃的だった。生前にはそれほど神話になるほどのすごい画家であるという認識はなかったが、時代がながれるなかで衝撃になって行った。ピカソに影響をあたえたのもセザンヌの絵である。この絵は山であるが、構成された作った画面であるのです。それまで現場で見て描くっていうのが主流というかアトリエでスケッチを見ながら記憶で構成して絵にするわけでありますが、セザンヌ先生の場合はほとんど画面を作ってしまうのです。見たままは描かないのです。絵は作って分解したり分析したりそうして画面の中で配置していくのです。そういうやりかたがピカソは絵のヒントにしたと言う事です。 絵は見たままを描くのでなく作っていくということを現代になって継承され、今の現代アートにつながっていきます。 しかし、今、現在、セザンヌは本当に昔の人になりそうな現象があります。画家セザンヌのほかに化粧品メーカーでセザンヌというのがあって、世の中の人は化粧品の方に関心がくぎつけかもしれない。 絵好きにはわかるセザンヌだけど、もう終わった絵と見る人もいるかもしれない。 そういう人もいるでしょう。とくに作家にとっては先に先に進まねばと迫られているのでそれはあるかもしれない。セザンヌを知らずにアート活動をするかもしれない。 では、このセザンヌの絵は、実は今の日本の画家には描けないくらい個性的であり、絵の具の使い方もわりと簡単であるがやろうとしない。みずみずしい色彩表現も再現できないでいる。これは特殊な巨匠の技術であるのではないか。 自然描写なんかもよく見ているし、形を単純化してそれっぽく見える程度まですることもある。 センスと知性が合わさった名画であると私は思います。あと、モチーフをよく見ている。そしてなにか教養らしき品の良さもある。この絵には魔法がかかっている。 なにか、魅力、感動がある。 日本のアーティストで岡本太郎という人がはじめてパリに言った時セザンヌの絵を見て感涙した

風邪ひいて死にそうになった。でも、生きてるよ!

今日もこうしてやってきました。風邪をひいてしまいましたね。でも、普通の生活をしていますよ。まあ、なんていうか会社も早退して病院に行った。そんで、薬飲んで二日目になります。 病気はしんどいものです。なるべくかかりたくないですね。年に何回、風邪をひいているのか。私っていう人は病弱なのか。でも、体は丈夫に見える。見た目がね。 さて、暗い話になってしまいましたね。まあ、病気で死ぬ芸術家もいるからどうも、そんな事を気取ってみただけなのですがね。それが、またいけないかもしれない。 ゴッホ、シーレ、スーラ、など奇怪な死に方をする人もいる。死についてなんか考えちゃうよね。体が弱いと。 まあ、あまり深刻に考えん事だよね。 ゴッホは狂ってピストルで自決した シーレはスペイン風邪 スーラは体調不良 デカルトは王妃が健康生活、朝早く起きて乗馬したり、運動したり、勉強したりで忙しく決行的に過ごしていてデカルト先生もそれにつきそって講義してたため、デカルトは死んでしまった。 いろいろ死に方はあるようですね。 まあ、僕は長生きしたいですので、会社から帰宅したら一時間半くらい仮眠をとって体の疲れを抜いている。体からつかれの煙がでるのだよ。あとなんか念みたいの、そういうのも抜いている。リラックスしてベッドに寝て体の状態をクリアにしていくのです。そうすると夜も疲れず遊べるわけです。 疲れを取る方法は人それぞれかもしれません。 ちょっと前だと、流行したことで塗り絵ブームがあった。色鉛筆で名画を塗るっていう作業があった。あれって本当にリラックスできるのだろうかと思ってしまう。色鉛筆で塗るってけっこうしんどいと思うのだけど。やる人はやるんだね。僕はちょっとむずかしい。 こういった文筆はたのしいから、人それぞれなのかもね。

友人と遊ぶ、遊興の雑談

昨日は、草加市展に行ってきました。友人がきてくれてたのしかった。 その友人はドストエフスキー「罪と罰」を6回読破したようです。ラスコーリニコフは老婆を暗殺してそこから逃げて行く中でさまざまな葛藤して最後に出頭するらしいのですが、罪をやって罰を受ければそれで私なら原稿用紙一枚くらいで書けますが、その友人曰くすぐに罰を受けないからドラマがあるのであるよと言っていた。 そうかもしれない。 展覧会を少し見て、そのあと、カラオケでエキサイティングした。 たのしかったしリア充生活をしたのだった。私はこれからどうするか? とりあえず仕事を続けるのはいいとして、なにかお祭りはないだろうか。一つ打ち上げ花火をあげなくてはならないのではないでしょうかね。 英語の勉強でもしようかと考えた。趣味でね。今、わたしの趣味は、 映画鑑賞 読書 カラオケ 書道 絵画制作 文筆 くらいかな。 文筆でなにか新人賞に挑戦してみるか。でも、つかれるからしないかもしれません。 疲れをどうやってとるのが私の課題になっています。僕も若くはないうようです。 とりあえず、家に帰ったら1時間30分くらいベッドに寝ています。熟睡はしません。体からなにか疲れの煙がでるようにまがまがしいものが体から出て行くのが感じます。 あと、脳も波立つのを落ち着かせてゆっくりリラックスして平静にして健康の状態にもどします。 そういう感じだから、平日はアート活動ができないのが本当のところではあります。 小説は書けるだろうか。それも長編のやつ。 毎日、書くのは大変だ。 そこが素人とプロをわけるものなのか。毎日、ルーチンで書けるなら職業としてできるのでしょう。 そもそも僕は小説本を買わないし読まない。買う本は美術書とか思想本、とかですし、あと歴史の本とか買っている。むしろ、そちら美術批評とか好きなんだよね。 まあ、そういうわけで小説家はなれない。あまり小説と縁が無いのでありますから。 僕は選ばれるかわからないけど、どうなるかわかりませんが、それでも生きていく。 このブログの文章もはきだめになっているし、私の文章のたのしみでやっています。文に酔っている感じを表現し

草加市展の祝賀会にいってきたよ。

昨日は展覧会の祝賀会であった。仕事を終えてすぐにいった。どこに、草加市のアコスホールの 7 階が会場になっていてそこに展示された。 雨とか大変であった。千葉ではすごい大変であったと報道されていた。 そんな中でも美術はたのしんでいた。不謹慎なことかもしれないが、同情をしつつも展覧会での合評会に行った。作品の品評会はおわり、椅子に座ってじっと休んでいた。 つかれていたのか。はやくビールが飲みたかった。 作品は、わたしの作品はまわりの作品にくらべ劣っていたのではないかと思ったが、意外に好きだと言ってくれる人もいた。それがありがたかった。 絵はいいよね。見ればいいわけだから。 言葉はいらない!ただ見ればいい。 今、音楽を聴いています。「ももいろクローバー」さんの歌を聴いて書いています。 とても元気が出ますね。久々の休日にゆったりカフェで原稿を執筆はわたしにとってはいい趣味であると思っています。 コーヒーはグアテマラ、コロンビアと二杯飲んでパンプキンケーキを食べた。 いい具合に脳にコーヒーが回ってきています。ももクロの音も耳から入ってくる。 最近はどのように美術に向き合っているか。とりあえず画用紙のロールをカットしてパネルに張りました。 B1 サイズです。あと、 M4 号の張りキャンを2つ用意しました。 もう、何を書くかは頭の中でイメージしてます。あとは制作すればいいだけです。僕は脳内で、イメージでスケッチや下絵を作ります。それで本番に挑んでいます。 あと、昨日、祝賀会というかオープニングパーティーにいって作家さんたちと交流していろいろ刺激を受けて自分の制作の励みになった。とても勉強になった。 あと、今日、昼からあんじー氏が展覧会を見に来てくれるみたいです。たのしんでいただけたらいいと思いますよ。 のどが風邪ひいててカラオケはできそうにないのか。とりあえず龍角散を一杯のんだ。 何か美術の話をしなくては、わたしの絵はまだまだ美術の名画に達していないかもしれないと思いました。名画っていうのはもっとなにかなゴッホ先生くらい衝撃的でないとただの趣味になってしまう。 もしかしたら、

仕事帰りにギャラリーkに行き絵をたのしむ。

今日は特に生産的な趣味をしただろうか。そんなことを考える。 自分は何もしなかった。 しかし、仕事帰りに画廊に行った。それでアート体験をした。そういう時間の使い方もいいでしょ。 本も読めない、文も雑文以外で本気の文筆もできる体力もない時には、絵を見たほうがいい。絵は目で見ればそれで体験できる。アートを! 文を書いたり、絵を描くって大変なんだよね。本当にたいへん。しんどい 仕事はしっかりしてきた。それはそれで生産的で人の役に立っただろう。 でもね、自分のプライベートの充実も大事だったりします。 昨日は、台風の一過で、しかもかなり甚大な被害のあるものであったために店とかも本格的にやるのが夕刻からだったりしました。 なんとしても、リアルで充実したいという気持ちでいっぱいでした。 今日、画廊、ギャラリー K で河口聖 個展を見てかなり自分の絵画が変わりそうな気がしました。一歩一段と先に行けるようなそんな自分の絵に突破口が見えた気がしました。 河口さんの絵は幾何学の絵で、オカルトな感じで神秘的、それも古代の絵のようなんだ。そこが多くの若い人を引きつけマジックにかかってしまうのだ。 一度、縁があれば発見するだろう。僕も今、その個展の作品についていろいろ言う元気は無いのでさわりだけ書いていますが、かなり深いんだよね。そして明解で不思議で魔術的、それはエジプトの美術をもっと幾何学にまで翻訳したタリスマンであって、おそらく時代の流れの中で残るような名画、もとい護符の美術品もしくは哲学者の石であるのかもしれない。 今、僕は酒を飲んでいない。僕はつかれているけど、この文章をしっかり書かなくてはと思い懸命なんだ。今日は趣味の事をやっていないから、なんとか一日を無駄にしたくない。だから、この文を書くのはけっこう必死です。 たんなる雑文にすぎませんが、これ大事。 若いころはむずかしい内容の思考もできたんだけど、今、それができないのだね。 家に帰って、夕ご飯食べて、今、自室でこの趣味の時間をやっている。 絵は毎日、描いていないんだ。 飽きたわけではない。 つかれている。つかれてはいても何かしなくてはならない。なにかを創造しなくてはなりません。それがたと

今日は台風で部屋にて、

 今日は台風で大変ですね。そんな中この文筆をしています。こんな時はだまってじっとしていなさいと言われることもあるでしょう。 でも、僕は平静を保っていたいのですね。 あわててどうしよもなくなると焦ってかえって事故の原因になるので、こうして書くという行為は大事なんですよね。 僕は、今、部屋でじっとして書いています。書くっていう作業が好きなんですね。あと、このブログは美術についてのことを発表する場なのですこしは今、考えている芸術のことを考えてみようと思います。 て 言うかね、こうして表現することが大事なんじゃないかと思います。とにかく、自分の感じる全てを表現することが僕にとって芸術なんだと思います。 とにかく歌っていたい。とにかく開放していたい。そんな気持ちが僕の内側から放たれるエネルギーの放射があるのですね。これを生きる表現というのでしょう。 生きる表現、これが芸術の基本ではないかなと思っています。 詩を書く時はなにも考えていませんね。第三の目で見ているものを描きうつしているだけの場合があります。そして、私の今書いているこの文章は私から出る音楽です。 僕は音楽を演奏しているのです。この人生をもって生きるということが音楽を奏でる行為であり表現であります。 みなさまも、音楽の楽器なんです。人間は楽器です。それでなにかを演奏しているのです。生きるということは音楽行為です。 絵もなにかな、あれはキャンバスがあってそれに絵の具で演奏している感じだ。とくに難しいものではありません。 基本的な技術のいる絵もあるでしょう。例えばアカデミックな絵なんかはそうとうな努力精進がいるでしょう。しかし、そういう枠から出てドロップアウトして自由になってみるとおもしろい自分の表現になっていきます。 僕の得意とするのは、 絵画、詩、書、歌ですね。どれも即興的な要素のある芸術のジャンルです。そうです僕は長期でがんばるっていうのが苦手なのかもしれません。 けっこうインスタントアーティストであることもあるでしょう。 そういうスタイルに批判してくる人もいます。芸術は時間をかけて瞑想的で刻苦勉励して真面目に真摯に重く重厚に描くものだと。もっと考えて考えて精進しなさい! そういう態度

ピカソがピカソの絵を描く名画「アビニョンの娘たち」前夜 著・本多裕樹

夏のはじまりによく美術鑑賞をする。過去のあの作品の事を思い出すのだ、それはピカソの思い出である。わたしはピカソの存命中に直接会った事はないが、伝説としてピカソの名は世界中で知れわたっている。ピカソは画家の代表格であり、死してなお芸術家の象徴のように思われている。そんなピカソも若いころは絵も売れず食うにも困った時期があった。ピカソは友人もたくさんいてみんなで助け合っていた。そんななかピカソは革命的な作品の構想を考えていた。当時ピカソが住んでいた場所はフランスの首都パリであって第一次世界大戦前の栄えた雰囲気のカフェのたちならび芸術家、詩人、建築家、画家、音楽家、法律家、学生などがたむろしていた。当時、ピカソはパリ万国博覧会に足げなく通い新芸術、あたらしい美を異国の文化から吸収しようとした。この時代においてトップのアーティストとして君臨していたのは、モネ、ルノワールと言った画家たちであり新芸術を創始した者たちだった。彼らは日本の美術に強い関心をいだきそれを真似して自身の絵に吸収し体得して新しい西洋画というのを発明したのだった。ピカソも新芸術を夢見て、新しい絵画を夢見て新しい発想を探していたのだった。印象派と呼ばれるモネ、ルノワールの後にセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホが出現した。彼らは印象派を基礎に一歩芸術の新展開に引き上げた画家たちで後期印象派、またはポスト印象派と後世に言われた。ピカソもゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの絵を購入してコレクションにして勉強していた。そこからヒントを得てそれを真似て作品つくりをしていたのだった。そうしてパリ万国博覧会に行き異国のアニミズム、純粋な人間の生のアートを求めていた。そして、アフリカの神像や神器にであった。それは生々しく魔術的であった。それに強くひかれた。仮面や偶像に、それらの神器に強いインスピレーションを受けそれを心に吸収した。何度も足げなくパリ万国井博覧会に足をはこんだ。家に帰ればアフリカのアートを思い出しキャンバスに試行して描いた。習作をたくさん描きアフリカ芸術を絵で、または肌でも心でも自らに憑依させ描いた。そうすると不思議で革新的な絵が次々と出てくる。                                〇 それまでのピカソの絵画は、いたってわかりやすい絵であった。誰もがわかるような人物や静物、花など描い

休日の雑談1

今日はつかれた、と言ってもまだ朝なのだがね。今日は仕事休みです。しかし、なぜか朝からつかれている。 なにかにつかれているのか、そんなことはないとしても、疲労にやられている。 こうして文章書く元気はあるにはある。 音楽を聴きながら、喫茶店で文章書いて、コーヒーにケーキをたべている。 これが私にとってリラックスタイムであるかもしれません。 メインの文筆の「イデアの考察」、「手記」、「第7詩集」を書き進めていますが、なかなか進まないものですね。亀です。亀のようなスピードで執筆しています。けっこうしんどいと思う時があります。でも、少しずつ書いています。「イデアの考察」は自分にはちょっと高めの格の書籍でありなかなかむずかしい、でも完成したら自信になると思うからやっています。 まあ、仕事もしっかりやって趣味を楽しめる余裕があるからけっこういい気分であるともいえます。 昼には友人に会い話をします。休日には友人に会ってコミュケ―ションとっています。もちろん電話もありだが、実際に会って真剣に話すのも大事だし、いろんな意見交換も大事だったりします。 情報も得られるし、自分も意見が言えて、友人からも意見もありとても勉強になるからいいのだ。しかし、ヲタクの友人の話は一方的に話してまくしたてるように攻めて話して電話をしてくるのが時々でくわしますが、それはけっこう苦手としています。でも、普段、自分の 話を聞いてくれる人や意見を言ってもいい人もいるので、それはそれでたまにはまくしたてられるのもまあ、我慢する時間もあってもいいと思っています。 さて、わたしのこのブログでの趣旨は美術について語ると言う事でありますが、とくに私は絵画を専門にしています。 最近は、フィンセント・ファン・ゴッホの絵を見ています。いっけん下手なんだよね。でも魅力が詰まっているっていうかやっぱり美しいんだよ。わかるかな下手なんだけど感動がある。そして、すごい絵なんだと思っちゃうんだよ。 絵の初心者はジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルとかレオナルド・ダ・ヴィンチが好きかもしれない。またはルーベンスが好きな人もけっこういるだろう。 でもね、下手な絵ってみているとなにかすごい魅力がある。それも美を知っている人の絵ね。下手とい

アートコンフューズ展にいってきたよ!

今日もはじまった。昼の執筆ですがね。昼ご飯に焼肉定食を食べました。肉を食べると元気になるし、健康にいいらしい。 肉を食べると長生きするという情報も聞いたことがあった。内臓がすごく健康になるようだ。それはいいとして、昨日、日曜日に 東京芸術劇場に行きました。 アートコンフューズ展という日本美術会のポスト若手の出品している展覧会に遊びに行ったのであります。 やっぱり何かな作品はすばらしいのがたくさんあった。休日にそういうエキシビションを体験できて自分も絵を描こうかなって思わせてくれるいい展示会だった。 というか元気が出たし、ありがたいと思いました。 日々の仕事のモチベーションになった。 一生懸命に絵を描いているのはもちろんだがさまざまな美術作品があって感じるものはやはりあるのだ、何か伝わってくる。 そういう意味で、若手の展覧会っていうのはいいものだなと感心し、今日の仕事もけっこうしっかり心によい影響を受けたのを覚えます。 たまにはアーティストにお会いするのもビジネスをする人には、または仕事をする人には必要な体験だと思います。 私は絵を描くのが好きで、絵を発表したりしいますが、このアートコンフューズ展にも過去出品したことがありました。でも、急に去ってしまった。 裏切り行為になったかもしれない。 でも、久しぶりに友人たちに会い、こころよく歓迎してくれたのが嬉しかった。 仲間っていいものだなと思いつつ、来年出品できるか算段して、僕もその空間に入れるかと思ったり、忙しくて参加できないかもと少々悩むこともある今の昼休みの午後、 今日も仕事がおわりました。喫茶店で書いています。 昨日、たのしかった 一昨日もたのしかったよ。 休日は友人に会ったり、アート鑑賞して楽しむのもいいものだと思いました。 何かな最近の人の絵って新しいものが出ている気がしました。有名な巨匠の絵はたくさん観ましたが、今のもいいね。 僕は今のマンガもけっこう好きで読んでいるのですが、あんじー氏という友人と議論すると今のマンガより昔のマンガが好きという。でも、手塚先生とか石ノ森先生まで古くないのだが、90年代のが好きみたいですね。 僕は今の現代のアートシー