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雑文1

今日もこうして始まりましたね。僕は今、会社の就業前でソファーでゆっくり休んでいます。最近は何をしているかと言うと、本を少し読むくらいでしょうか。でも、それも三日坊主です。続けている事と言えば書道の練習くらいなものでありましょうか。なかなか面白いですよ。半紙は100円ショップで購入して、筆は毛筆の万年筆を使っています。それが趣味ですね。あと、他に何やっているかですが、そんな大したことをしていませんね。若い時にやるべき事をしっかりやったので、もう何というか満足しちゃっています。家に帰れば少し休んでゆっくりして夕食を食べて風呂に入ってそのあとベッドに寝ています。それでも結構幸せに生きています。やっぱり何か趣味をした方がいいのだろうか。絵とか致したかなく描いています。絵を描くってけっこうしんどくありますて、絵って言うのは若い人がやるものだと思っています。それでも、ヘナヘナの体の状態で倦まず弛まず描いています。辛いけど制作しています。 一仕事終えて今、こうして昼休みを迎えています。何をしようかとソファーでゆっくり珈琲飲みながらくつろいでいます。絵のことが浮かんできました。絵はやはり人を幸福にすることが可能なのではないかと思いました。自分の絵も他人の絵もなかなかいいものであるし、絵はやっぱりいいものなのではないかと考えていました。 2月の下旬に極小の美展があってそれに出品します。その準備をしていますよ。作品はできていますが、額にフックを付ける作業をしてます。絵の方は二日くらいで全部完成してしまいました。長期戦にならなかったのが良かったです。アクリル絵の具を使ったので割と早くできました。あと、準備しなくてはならないことは作品にタイトルを付けて作品としての内容を作らねばなりません。僕は作品を制作するけど、その評価や意味に関しては作者を離れてまた別の意味になっていくのが面白いところです。僕自身の作品の意味もあるけれども、大体が鑑賞者が決めていくし、また、自分の意図を越えて別の意味に、または評価に変わっていくのがまた面白いところかも知れません。 さて、絵画作品について書いてきたけど、まあ、そんな感じで評価に関しては他のことでも言えるのではないかな。作品、または様々な商品とか、ものでもそうかも知れません。物の価値は様々ですが、それを決めるのはなんだろうか。そ

ちょっとした修養

毎日は、文筆はできないな。できる人がプロになっていく。自分にはそれができない。 絵も毎日描く人が結局、名画を描いていく。そして、歴史にのこっていく。 わたしは、毎日、アートをしない。できる事と言えば仕事して、そのあとのチキンを食べるくらいか?もしくは動画をみるかだ。 だらだらも毎日できない。外でないとダメになる。なので、一つのことを毎日しない。けっこう変化があったりいろんなことがあった方が楽しいのかもしれない。 雑食系であるのかもしれない。あと、暇もいいけど、暇がつづくとしんどい。 行動的なのかもしれないけど、疲れやすい。 アートにおいても、いつも同じモチーフを描くのは正直しんどい、変化が無いと飽きる。美学においても同じ美学ではやっていられない、他の美学を発見してそれを実践して作品制作に具現していきます。 今日、昼ごはん何にしようか? 牛丼、ラーメン、うどん、   う~ん早く出てきてちゃっちゃと食べれるものがいい。となるとカレーかな。それともラーメン、かな。 腹へった。空腹である。しかし、人間は空腹であるのが当たり前なのだ。満腹というのはここ最近の ことばである。人間は基本、空腹なのだ。人間は空腹に耐える力を持っているし、栄養が無かったら内臓が栄養を作ってくれるのだ。なので、食べないから死なないってことは無いのだ。でも、少しはたんべることも大事だと思うけど。 わたしはけっこう体重がある。80キロである。若いころは50キロくらいであった。これには 訓練したというか肉体改造をしたのだ。とにかく食べたのだ。本当に死にそうなくらいだったから生きるために食べた。そして、仕事して体を引き締める結果になった。今は、たくましい肉体になっている。50キロの時すごい神経質だった。それは今でもそうだ。でも、太ることで大らかになっていくし力がついていく。 脳が悪かったりする。それは瞑想によって精神統一をして脳内を静寂にして無駄なエネルギーを使わないストレスを感じないように修養していく。心を動かさない訓練も大事だね。まあ、筋肉トレーニングはしませんが、精神面で自分を修養、筋トレしていく感じです。 あと、人と会う事も大事です。それは名士であってもいいし、おもしろい情報をくれる人でもいいし、気の合

詩人は、1

詩を書くのがしんどい。あれはやはり気が狂わないと書けないだろう。もう何か狂気であるね。 むかしの詩人はアブサン飲んだりやばい薬やって書いていたんだった。現代のミュージシャンでも薬に頼って霊感を呼び起こし、普通じゃ考えられない名詩ができてしまう。 詩ってやつは、 マジメに書いていても名詩はできない場合が多い 案外、 女にだらしなかったり、薬に依存していたり、酒中毒の人が、はっとするような究極の詩を書いてしまう場合がある。 文学史的に言えば、シャルル・ボードレールとかランボー、ヴェルレーヌとかの天才詩人はやっぱりやっていたんだ。 これは事実だから仕方ない。 僕はコーヒーに頼っている。スターバックスのコーヒーを飲むと2杯目くらいで頭がくらくらして文筆が進むのだ。断っておくが、あぶない薬とか、あぶないモクはやっていない。やっているのはスタバのコーヒーでスイッチが入ります。 詩はそういう意味では奇跡だったり、狂気であったり、危なかったりします。脳内の麻薬がすごい出るんだよね。 ある写真を専門にしている友人が、詩は文芸の中で一番むずかしいものだと言っていたが、そうかもしれない。しらふで書けるものでなから。どこか狂っていないのむずかしい、常識ではやっていけない。 私の家に、ある詩人が書いた生原稿がとどいた。ほとんど病気に思えた。そうでもしないと書けないのかもしれない。恐ろしいと思った。 文芸をやっている人はけっこう病気になっている人が多いのではないか。だって、しらふで書ける人にあったこともある。しかし、病的な人ともあったことがある。まじめなしらふの人はすごい詩作においてストイックでしっかり書いていたが、人間が壊れ気味で病的の人の詩を朗読で聴いて原稿でも読んだが、なにか天才的だった。しかし、人間的には壊れていた。まじめでストイックな詩人はやはり真面目であった。 詩人の天才型というのは病気になっている人に思えた。しかし、いい詩を書くのだ。 不公平なのか? そんなことも考えた。詩人の天才型がおかしいがすばらしいものを書くことがわかった。でも、これを読んでいる読者はあぶないモクや、あぶない薬に頼ってはいけない。僕がおすすめするのはスターンバックスのコーヒーが酔える。あれ

アートシンキング

今、けっこう楽しい。音楽を聴いているからかもしれない。久しぶりに音楽をたのしめています。カフェで茶をしながら音を聴いている。それがすごく幸福感にふるえる。普段、音楽をあまり聴かないのでこうしてカフェでゆったりしてイヤホンで音を聴くのがすごく最高な時間になっています。これはけっこう幸せなのではないかな。  生産性が大事なのか、それよりも知的生産術が大事なのか。世の中には仕事のことで悩んでいる方々は多いし、僕もけっこう毎日、頭つかって工夫して仕事のクオリティーを上げる様に自分なりに工夫して会社に生き残っている。そのお陰で今現在まで働けているのだ。解雇にできないくらい仕事をしっかり、自分のポジションを役目を果たしているつもりであります。ただ仕事するだけではやはりいけないのだ。なんというかプラスαが必要だ。そのαがわたしはわたしを守っている感じがしますね。  プライベートで絵を描いているからだろうか、なんとなく開放の仕方を知っていることはあるからなのかな発想がでて来るアイディア工夫の仕方、自分が怠け者なので楽にやって質の高い仕事というかそういうの、アートは価値を作っていく。それはどこでもそうだ。社会生活の中でもアートシンキングで染み込ませる。アートは価値を創造する、それは会社の中でもそうだ。 一言でアートと言ってもいろいろある。音楽、美術、演技、工芸、工作、文芸、音楽、歌、いろいろだ。それらに固まってしまうと開放がむずかしいが、アートはやっぱりプラスαであり、なにか仕事に質と美的なものをもたらしてくれる。それは言葉では言い表せないが、なんとなく、効果がでてきたりしてくる。普段の所作においてもそうだし、なにかあるね。 なので、アートをやることは僕にとっては無駄になっていない、むしろ知的生産性に効果を出しているのが顕現していることを実感している。 そんな私もアート制作においてそれほど名士でもなく、高い技術、神のような芸術を制作する人ではないのですが、なんとなくアート意識が私には根付いている。ビジネスパーソンであってもアートをやることは僕は大事だと思っています。でも、みんなアートをしてとはいえない。暇があったらアートに接して感性を磨いてみるのもいいかもしれません。少なくとも僕はそうでした。 モノづくりって意外に使えます。モノをつ

制作の近ごろ、1

今日もこうしてはじまりました。毎朝けっこう早起きですが、休日の土曜は二度寝してしまいましたね。なんかね疲れているのでしょう。それで家でグズグズしてゆったりしていました。一念発起して理容室に出かけ髪を切ってもらいました。その後、昼ご飯に天丼とみそ汁、お新香を食べて幸せな気分になって、駅のあたりを歩いていました。電車に乗って二駅くらい移動して今カフェでゆったり音楽を聴きながらケーキとコーヒーを楽しんでいます。なんともだらだらな休日、何か情熱をかけてやったことがある。今週の月曜日、火曜日と仕事が終わって午後8時くらいから絵を描いていました。27点の小さいサイズの絵を完成させてけっこう満足した。 制作している時ってやっぱり狂気だと思うよ。制作後けっこう気が変だからちょっと具合悪くなる。制作自体はあまり時間のかからないものであった。板にアクリル絵の具で塗り込めて形にしていきます。もう何かな、心の目、第三の目で板にアクリルでしたためるのですぐ出来上がります。あまり手間がかからないので一気に描いちゃいます。風景、抽象、少女とか、ガシガシ制作して二日で完成させてしまった。あと、4点くらいはペンと色鉛筆で描いた絵がありますが、そちらは時間がかかってしまった。アクリルは偉いなと思いましたよ。 今年のギャラリーKでGALA展っていうのがあったのだけど、アクリルの具象画がけっこう喜ばれたので今度は小品でアクリルで風景をいくらか描きました。自分ではあまりいいとは思えないのですが他の人が見るとよく映ることがあります。 絵画作品というのは評価が作者を離れて作品が個性をもって世界を旅していく。そんな可能性がある気がします。私とは別の個性をもって、作品は独立した存在になっていくし、購入される方にとってもまた作者とはまた別の感想と評価が出現していく。それがけっこうおもしろい。 ひとまず今週の絵画制作はしっかりやっていましたよ。先週の土曜には掛け軸の半紙サイズの絵を二点制作しました。それは婦人像と抽象画です。画材はアクリル絵の具の紙です。  なんというか最近はけっこう描いていますね。今年の展覧会のスケジュール表ももらいましたのでそれで目標ができたのかもしれませんが、自主制作もしていきたいと思っています。 世の中には男女が寄り添っている人がいる。それを見て癒

どうでもいい話、でも頑張っていますよ。

最近は意外に、幸福に生きている感じがする。本を少し読んで、絵も少し描き、文も少し書くことでしかも仕事もしっかりやって、酒をたしなんでいる。 いたって普通。こんな普通のおじさんの文章はあまり面白くはないだろう。 でも、この普通っていうのはかなり平和的でありながら、無理をしない事だ。そのかわりガシガシなにかをすることは難しいでしょう。 若いころは懸命にやっていたけど、けっこう無理していました。あまりにもストイックにやっていて人生が狂っていた感じがします。若いってすごいですね。 思想のひらめきがない。書いていて思想のひらめきが無い。過去に詩集とか「芸術の書」、「イデアの考察」「ゼウス書」という電子書籍を発表して言いたいこと書きたいことを書いちゃったから、それで吐き出してもう語るべき高い哲学を出すことができなくなったのだ。 言いたいこと言うとすっきりしてしまうのだなと思いました。 あと、これからの人生は余生だと思っています。なので、けっこう気楽ではありますね。本当に気楽です。 そういうえば2月にギャラリーKでやる「極小の美展」の作品できました。あと、紐を通すだけです。27点の小品を出品します。 風景画、抽象画、とかを制作しました。けっこう面白い作品です。自分でもなかなかいいなと思っています。出来がいい感じがして満足してますよ。 自画自賛ってやつですね。実際、自分で絵を描いて完成した作品を楽しむのもいい感じですよ。 描いて楽しみ、完成した作品を楽しむ、発表していろんな人に見てもらい承認欲求を満たすことで楽しむ、そうやって絵画というのを楽しんでいます。 詩集をまた書いています。いい感じになってきたような気がします。 朝から書いています。なんと2時間で15編書いてしまった。けっこう出来るものだなと思いました。 あと、15編書いて茶店を去ろうと思います。 明日辺りにはAmazonパブリック出版で発表出来たらなと思います。 でも、そんな無理しなくていい気もする。 まあ、僕の友人が少ないからこんな孤独の作業に懸命にやれることが言えるかもしれませんが、自分ってやつはどうも孤独癖があるというより、一人でいないと落ち着けない感じなんだ。どうも、気難しいところ

近況雑談1

今日ひさしぶりにPCを開き、こうして文章を書いています。正直しんどい気分でしたが、いざ書いてみると楽なものだと感じます。今後の文筆計画を立て直しつつこの雑文で少し自己内省して新しい展開の文章の趣味を考えてみたいと思うよ。 小説の執筆。これは今とてもいいものだと考えています。 結局こうして文章を書くだけで趣味の文筆は限界に思っています。前は詩とか難しい思想とか考えられたのですがその体力が無いことがわかりました。 まあ、書くべき時に書いたのでよかったし、すっきりもしています。今は雑文を趣味としています。昨日は「極小の美展」の制作をしました。もう、27点くらいのアクリル画を完成させて、あとは紐を付けるだけです。あとは、会期が近づいたら搬入します。 野心、これが無くなった。そのかわり、目の前の課題や仕事を一つ一つ一日一日しっかりやって、それでお酒をたしなんで日々を過ごすのでいいと思っています。なんかおじいさんみたいですよね。でも、それが無理のない生き方でもあります。 無理ができなくなった。無理をしてしまうと病気になる。毎日、規則正しい生活をしてちゃんと自分のたのしみを楽しみ、日々を生きる。それでやっています。休日には映画を観て心を浄化してすっきりさせています。美味いものを食べて体もリフレッシュさせていますよ。 無理に野心抱くより、目の前の課題に真摯に挑めば、それが一つ二つと実績になって自信になる。しかし、若い人はそうはいかないでしょう。若い人はみんな風雲児でありますから竜神がついて大きな仕事をしていくのではないかと感じます。 正直、若い人に勝てない感じです。そんな僕にも若い時があって懸命にアートに精進して燃焼した感じです。まあ、それでけっこう満足してしまいました。 がんばるのはいいことですが、無理しないように、でも若い人は無理してまで進歩発展していくでしょう。それで大きな成果を出していくのだなと思います。 詩は、書こう書こうとするがつらくなってくる。過去なぜ詩が書けたか?あまりにも不思議、でもやっぱり覚悟と情熱があった。それは続かないものです。恋愛が3か月続かないのと同じです。恋愛は年中はできないですね。恋愛にも賞味期限があるし、いつかは冷めた関係になって寄り添って生きていくことに努力するようになる

生きていることの余韻

今、制作しているのは「文学とアート」のためのB1サイズの絵を一点、あと、2月にある極小の美展のはがきサイズの絵を30点を完成している。 どちらもギャラリーK で開催される展覧会である。 僕のやっていることを趣味ととらえる人もいることも事実である。ねたむ人もいる。しかたない。それほど大金を稼いであるわけでもないし、そう思われるのもうなずける。 しかし、そこにはねたみそねみもあるだろう、そういう意味で自分のやっていることは隠すのが賢明に思うよ。あまり、ガシガシやっているとねたみそねみに遭い嫌な気持ちになってしまう人もいるのだ。 人生はサバイバルだ。特に成人した男性はもう生き残るために何でもしなくてはならない。 その中でも礼は大事だ。 礼なくては人は動かない。暴力的な威圧では人は動かないばかりか、人が離れてしまうのだ。 礼なくば神様も動かない。これは厳然とした現実だ。礼をもって神にお仕えしていかなくては災いがやってくるし、神徳により守られることは無いだろう。 何度も言う、人生はサバイバルだ。生き残るために何でもしなくてはならない。生きなくてはならない。 生きる力が絶対的に必要であるのだ。 生産性なんて無くても生きて行かねばならない。それも美しく、その美なる生き方でもって生き様をのこせばいいさ。 私なんかも障害者であり、それでも一般企業で働いている。障碍者だから、ダメではないのであって根本的に生きるという意志さえあればいい。 大事なのは生きる事だ。それも美しく。 そういう訳でただ生きているだけでもいい。それに加えて生きる意志、生きる力があなたを輝かせていくだろう。 そうすると挑戦していこうという気持ちになり、おもしろくなってくる。人生がおもしろくなる。勝負が勝負をひらき、挑戦によって世界がひらいていくだろう。 礼節、調和というのは意外に生きていく中で重要なサバイバルな知恵だ。 僕なんかはいくらか荒くれものであるが、荒くれであっても礼・和を大事にしようとしているのだ。でもね、宗教家のごとく坊さんになるわけでもない。 自分は自分を演じきれればいいのだよ。おもしろくやっていけばいい。それでいいのではないかな。 まあ、こんな感じで、サバ

最近のこと、美術のこと

僕はけっこうな馬鹿な人だと思うよ。その理由というのは調和ができていないことだ。今、懸命に人付き合いを積極的にやっているが、なかなか上手くいかない。家ではあるいみでくのぼうである。 その調和、礼節に知恵が内蔵している感じがしてます。 知恵が欲しいから、調和、礼節を身に付けたい。一つ変わりたいと思っている。究極の課題である。 これを成したい。 美術、絵画をやっていると完成した作品をみて、増上することがある。絵が売れても増上する。いけないことなのだ。嬉しさのあまり自分が偉いのではないかと勘違いする。このクセをなくしたい。 心を修養して、しっかりした人間にならないとこれから生きていけないだろう。それは必須なのだ。 バカであっては僕は生きていけないばかりか、仕事も失い、人望は失い、貧乏になってしまうだろう。 そういう意味でおもしろい、人生はサバイバルだ。そう思うね。 もちろん、馬鹿と言っても僕のバカさというのはとんでもなく暴人なのだ。これを改めよと天啓みたいなサインをたくさん見かける。今、変われとのメッセージがいっぱい警告してくる。 さて、絵の事に話をもって行こう。絵の世界ではコミュニケーションがかなり重要だ。作品のお披露目のオープニングパーティーやお客様への対応も大事な仕事だし、作家の間のなんとなくだが派閥に近いところもあるところにはある。でも、それは実際、僕は苦手なんだが、なんとか生き抜くためにやっているのが現状であるのだよ。 河口聖さんと話してて、生き抜くためにはなんでもやらにゃならんと教わった。 作品のプレゼンテーションもかなり必要だ。自分の作品を説明しなくてはならないし、それはどこの美術展でも作品紹介はあるし、とくに合評会ではあることなのであるよ。 作品がよくても作家がよくないと作品が売れないことがあるし、評価もされないこともあるにはある。それは私も経験しているし、そういう判断で作品選びすることもある。 若い人をある程度は認める必要もある。新人でもすごいのがいる。時々、天才がいるだろう。そういう人にはよしみを結ぼうとしてもかえって関係が作れない場合がある。でも、そういう人はトントン 拍子で成功していくだろう。 僕なんかはとろいのでゆったりしてい

美術を楽しもう、1

今日もこうしてはじまりましたね。これを読んでいる人は、夜のふかい世界での夢でしょうか。それとも朝や昼にかたてまにスマートフォンで読んでいるのでしょうか。どちらにしても、たまたま僕と縁がつながってこうして読んでくれている感じがします。 さて、これからはちょっと本題に入っていきたいね。僕は絵をやっているわけでありますが、これも趣味かもしれないし、そうでないかもしれない。でも、絵を描いては発表をしています。普段は勤労に励んでいますが、休日だけは芸術家でいられます。 職場、芸術家、家の人と三つの顔をを持っていますね。でも、切り換えればそれは可能なんです。 今、これを書いているのはカフェですね。ケーキとコーヒーをたしなんで茶をしています。音楽を聴きながら文筆活動しています。文筆における野心もなんか無くなっちゃってね。まあ、なんか落ち着いちゃった。でも、まあ、楽だよ。 僕のことを哲学者という人がいますが、僕はたしかに昔においてむずかしい問題にあたってそれを考察して探求していた時もありましたね。その名残かもしれない。 でも、今はそのような問題を自分なりに解決して終わってしまった。 むかしむかし、先生が自分に満足するとそこから進歩しなくなると言われた。その通りだと思うよ。もう、僕の内面に抱える問題やそういうのを解決することもしなくても生きていける。 人生の整理をしている今、僕は自分を調整している。荒れた自分の精神を調和しようと励んでいる。余計な人脈も無くなって行った。それで、脳が清まった。荒い波動が苦手なのでそういうオーラを感じると具合が悪くなって不安定になって、苦悩する事もある。 絵のことを考えた。僕はけっこういろいろなモチーフを描けるし、なんでも屋ですね。でも、できる絵はそれほど上手とは自分でも思えないが、おもしろい絵だとは思っています。 パウル・クレーの絵画作品は下手だ。でも魅力的だ。でも、上手い絵を観たいか、写実に行った絵は返ってあまり見たいとは思わないが、むじろ吐き気がしてしまう。下手な絵が好きなんだな。僕ってやつはね。多分、絵に下手も上手っていう常識はもはや20世紀でなくなっているような気もする。  美だな。美を感じ取る能力が必要だ。自分が美と感じたものを見ればいいし、描けばいいのだ