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画論 制作について1

画論 3 絵を描き始めたとき、なかなか上達しない自分にイラついた。焦っていたのか。でも、毎日少しずつガシガシ描いていた。その当時、お金がなかったので、100円ショップに画材をたよっていました。水彩絵の具なんかはほとんど100円ショップで仕入れた。画用紙だけはいいものを使っていた。何が言いたいかというと、絵が上達するにはまずは画材が必要だと言う事です。 デッサンが上手になるには、無尽蔵な紙が必要です。紙がかなめです。紙にペンで描きまくれば絵は上手になる。 根性論、清原。理知論、野村。天才派、イチロー。 仕事において、打席を多く持っていた方が仕事が上手くなるし、顔を覚えられ、有名になれる。なので会社に勤め続ければそれなりの役に立つばかりでなく、顔も利くようになる。打席数は週5日だ。絵もそうだし、どんなことでもそうです。打席数がその人の名声になる。でも、いつもホームランを出す必要は無い。たまにヒット打てればいい。そんな感じで絵の修行をやっていけたらいいと思います。時々、いい作品ができればいい。毎日毎回ヒットは期待しない方がいい。ホームランのような展覧会の成功はしなくていい。ただ、制作も、展覧会も打席に立てればそれでいい。それでヒットもあればいいしホームランがあったらラッキーだ。ヒットもホームランを目標にしなくていい。打席に出ればいい。それだけで有名になれる。ホームランねらっての展覧会は無い。その前に打席に立とう。打席にでなくてはヒットも夢のまた夢、ホームランもしかりである。 僕は普段、馬鹿だ。家ではバカやっているし、友人との付き合いでもバカやっている。いわゆる放心している。でも、制作の時、仕事の時スイッチが入ってスーパーサイヤ人になる。普段は本当に放心している。馬鹿のように、いつも本気であってはつかれるよ。僕も抜く時は抜いています。もし、あなたが馬鹿であるなら、それはあなたの心の姿はものすごい仕事をする可能性がたかい。放心してい人はひとたび、仕事とか趣味のことになればスーパーサイヤ人になっているだろう。 画家は、ふだん馬鹿でいい場合がある。そのかわり作品でしっかりいいものを制作して多くの人を楽しませたり感動させたり、できればいい。それで作者が立派な人であれば作品の見方も変わるだろう。 絵は作者を狂わす

画論 絵について1

画論 絵について 絵がそれほど上手でなくてもいい場合がある。あまり上手すぎるとつまらなくなる。なにかなすこし下手な所があって、一生懸命に描いていますよっていうところがあると何かしらないけど面白いというか華を感じる事がある。不思議なことだけどね。 ゴッホの絵がなぜ感動するか。ゴッホの絵はまじめな画家がみたら異端に思うだろう。一生懸命アカデミックな方法を学んだ人から見ると下手だなと思うだろう。しかし、ゴッホの絵は時代を越えてのこっている。しかも、彼の絵に魅せられて取りつかれてしまう人もいる。美を知っているのだろう。ゴッホの分かる人はわかるのだろう。その美が、太陽の輝きが! 絵にも華が必要だ。 絵は上手ければいいってものじゃない。その意味をあなた自身で発見してみてください。 アートの美は、日常でも使える。画家の友人が美意識でもってモノを選ぶことがあって、それが大変よい結果を出したと言っていた。美意識は社会の中でも、人生の中でも彩っていくのでありましょう。 アートはかならずしも結論を出す必要はない。問いかけだけでいい。鑑賞者にその作品の価値の判断を与えればいい。そうすれば勝手に作品が動いてくれる。評価が市場にまわっていくことになるでありましょう。作者では考えもしなかった感想や評価がまわっていく。作品は問いかけで、それでいい。 絵を観る事は、美術館、ギャラリーでなく、自宅でも可能だ。現代は絵を購入できるようになっている。少々高いこともあるが、自宅でアート体験もできるのでいいかもしれない。ゲーム買うか、アートを購入するか。どちらもおもしろいだろう。 人格と作品はつながっている。作者がわるければ、作品もわるい。作者がよければ、作品もよい。 作品をみわけるばあい、作者もみたほうがいい。よいかわるいかは法律上のものでない。美意識で作者と作品を判断しておこう。これができればいい人か、わるい人かの判断が人生の生きる中で判断つくこともあり、知性の鍛錬になるだろう。 絵画を制作できる人もいるし、できない人もいる。でも、絵はそんなみがまえるものでもない。誰でも描ける。紙とペンがあればそれで十分だ。そこから始まっていく。そして、それなりの作品ができるためには長い時間がかかるだろう。急には上手にならない。だから

画論 デッサンについて1

画論 1、デッサン 藤木師はこう言った。デッサンは絵の基礎である。デッサンできればどんな絵にも対応できる。なので本多君、デッサンに一年は懸命にがんばりなさい。 甲斐師は言う。デッサンは描き込むことが必要だ。紙をつかいまくりデッサンしまくりなさい。 羽賀氏は言う。デッサンは軽やかでなくてはおもしろくない。デッサンだけで芸術作品にならないか常に考えてきた。それは線に芸術性を見出したい。それはクロッキーという画家の下絵に過ぎない絵を芸術にまで高めたい。重い絵より、軽妙で軽く楽しい絵が私の目指すところです。 デッサンは絵の基礎であることは真実だ。デッサンできなくても絵はできるが、デッサンは絵の中でも知性を表し、絵の構造を示すものである。 甲斐師は言う。幾何学を学びなさい。わたしが本多君に幾何学の書き方を教えます。これを宿題にします。 絵の中に幾何学の構図を作る事で、絵の中に神秘を残すことであるし、三角、円、四角形に絵の形をおさめることで見る人の視覚が合ってくる。幾何学は形の中でも完璧な数学的神性なものであるから、 河口聖さんの絵には幾何学を多用している。それが神秘的なものと哲学を表している。幾何学の可能性には神秘への入り口とともに真理への道へいざなうだろう。 羽賀君のデッサンを描いている現場を見たことがあるが目が狂っていた。そこまで真剣にやるのかというくらい狂気のオーラを出していた。 デッサンを真剣にやると脳内麻薬が出て来る。これは違法の麻薬でなく、絵は人を狂わす何かがある。 甲斐師はこう言った。人物が描ければどんな絵でも描けるよ。だから精進しなさい。 藤田嗣治にならい墨と半紙と毛筆の筆で絵を描く。これがはまった。毛筆で絵を描くのは楽だ。あまり力を使わないので楽にすいすい描ける。筆圧も鉛筆と比べると楽。筆圧を調整する事も可能で細い線や太い線、自由自在であります。墨を硯ですって、墨で集中して描く。なかなか趣がある絵ができるから面白い、僕はドはまりした。 墨と毛筆でのデッサンはあまり絵が上手でなくても作品が上手く見えてしまうという魔法の画材であります。 鉛筆はねりゴムがあればいくらでも修正もきくし、線を細くしたりして調整もできる。デッサンの友であると言えます。ねり

今の僕の制作状況

今の絵の課題と制作状況について語っていこう。 B1サイズの水彩紙にアクリル絵の具で絵を描いています。 ロールの紙を切って、パネルに張って、アクリル絵の具で描く。 「少女二人」 今年ギャラリーKで文学とアート展というのがあってその制作です。少女二人は、赤川次郎の「ふたり」という小説をモチーフにして構想したものです。 制作はしんどい、会社から帰ってきて、しばらく休んで、夕ご飯を食べて、またしばらく休んで、午後8時30分から描き始めます。下絵を描き、色を乗っけていきます。背景から描いちゃいます。それでその日は終わり、けっこう時間かかった。 次の制作、顔や手など肌の部分を描きます。これも時間がかかる。描いている時、すごい集中しているものです。制作後、なんか興奮しているし、そのあとぐったりして風呂入って眠っちゃいます。 それ以後、アトリエに放置して、そのまま、描くのがしんどくなってきた。 でもね、制作のことは考えている。服は何色にするか、もっとシックに行くかとか、描かない時も制作しているようなものです。考えたり、絵のプランを考えるのも大事な制作時間であると思います。 瞬間でひらめきながら描く人もいるでしょう。モデルを見て描く人はあまりそういう努力しなくていいかもしれませんが、ただ見て描けばいいのだから。モンスター、バーチャルリアリティーを描く人はすべて 0 から1、1,2と作っていかなくてはならないので、創造力、想像する力が必要です。インスピレーションを全開にしなくてはなりません。 見えないものを見る能力も必要になっていきます。そういう意味で創作と言えると思います。 創作には集中力が必要だね。でも、その集中力が続かない。僕がそれだ。いわゆる燃費がわるいし、すぐ疲れる。そういう僕みたいなタイプは制作を 1 日でするのを 1 か月に分けて少しずつやっていけんばいいのだ。そうすれば 1 か月で 1 作品できるだろう。亀でいいと思うよ。その分、絵に手抜きなところとか直す時間もあるから結果的に完成度の高い作品になります。時間かけて良いと思いますし亀になってゆっくり制作をお茶飲みながらゆっくり優雅に制作した方がなんか感じがいいんだと思うよ。 僕は天才であったこともある、天才でいられる時間ってある一定の期間

詩作について書いてみました。

詩を書くのはしんどい、では、なぜ書くか。ほかにやることが無いからかな。そうだね、そうかもしれない。詩を書く人は大変だと思うよ。 詩は気が狂うから大変だね。あまりおすすめしないな。 オーソドックスな詩は書いてきたので、そろそろ現代詩をやってみようかな。 詩はだいぶ高校生の時に短歌をつくったところからはじまった。 その一首が始まりだったと思います。19歳の時にまた夕日を見てそれを写実的に書いた詩が皮切りであったのか。それともジャン・コクトーの詩集を読み、自分でもやってみようと思ったのか諸説あるが若いころから趣味で書いてきた経緯があったのだ。 まともな詩を書けるようになるまで、ずいぶん時間はかならなかった。なぜかね。 それはなぜか、基本、読書したり文章を書くのが好きだったからなんか書けるようになっちゃったのだ。あと、反道徳の思想もわたしにはあって、それがなんか美学の支柱になってしまったこともあります。基本、僕自身の人間解放であったのかもしれない。 反道徳の思想はキリスト教会への反発もあったであろう。わたしはむかしクリスチャンであり洗礼も受けていた。そういう者であったが、キリスト教会を去って行ったのだ。芸術に改宗したと言えましょうか。 有害図書もけっこう読んだのか。そういうのもあったな。 僕の好きだった小説で太宰文学があったけど、それ読んでポーズを決め込んだこともあった。 今は、いたってニュートラルな感じです。昔は昔で狂った人生を生きていたのだった。どうしよもない不良青年だったから、本当にどうしよもない人間だったんだ。 羊の皮をかぶった魔物であったことは言えると思います。 詩は書けばいい。でも、書ける人は奇跡の人だ。書かれた詩はどんなものでもすばらしいものなのだ。 友人の詩人がいろいろ原稿をためている。それを読ましてもらったけど、すごい業に満ちていて悩んでいてTHE詩人と言えるくらい詩人らしい詩人だった。そして、美しい旋律の文章を書き綴っている。それは素敵なものだった。 私は旅を時々する。毎年、京都に行っていたこともあった。一人で電車に乗って新幹線でビールと押し鮨を食べて向かう、その時に考える。京都の文化の叡知をね。歴史好きにはたまらない。でも、いかなくなった

アートな雑談

今日もこうしてはじまりましたね。僕は今日は公休です。朝はやくから喫茶店に入ってこうして原稿をガシガシタイピングをしています。いつも、何を考えているか、やっぱり自分の作品制作について思考しています。今年の展覧会のスケジュールを画廊からもらったので作品制作の構想を考えていますのです。 コーヒーの香りがいいな、ケーキもうまかった。わたしは何をめざしているのか?それすらもなくなったのかもしれない。若いころのエネルギーは思いっきり消費して燃焼した感じがする。それでけっこう、満足しています。今は、仕事に精進しています。さまざまな所で懸命にやっています。 絵とか詩とか書、文は暇つぶしの趣味なのか、いや、そりゃ趣味だって意識を低くしてはいけない。こうした詩文書画は精神を高めたり、楽しみであるからたとへ趣味であっても懸命にやっていますよ。 僕はよく小説書かないかと言われるが、実は小説はあまり読まないし、楽しみ方を知らなかったりします。むしろ、自分が読む物って美術書、思想、哲学の類であったりします。なので、小説はあまり楽しいと思わない、なぜ、たぶん僕は早く答えが欲しいのだと思います。ストーリーをたのしむ趣味を持っていないからだと思います。でも、小説が好きな人は好きなんだろうなと思います。 僕の好きな文章は、どうでもいい断片の文章とか好きだったりします。あと、事実を書き綴った書館とかもけっこう好きです。 しかし、事実をそのまま事実に書くと気をわるくする人もいる。私なんかもわたしの事実を書かれたらそれはそれで参考になるのだが、普段、後ろめたいことをしている人にとっては告発のように思えてショックを受けるのでありましょう。 事実の衝撃性は、太宰治もやっている。太宰の文学は平面的という人もいますが、あれはかなりリアリズムだと思うよ。マジなリアルだからこそ生々しさがあるのだし、衝撃もあるのだ。リアルというのは力があるのだと太宰先生は証明したと言えましょう。 かえって空想は軽い、息吹けばどっかに飛んで行ってしまうくらいもろいであろう。 今、絵を描いていますよ。 B1 サイズのアクリル画を描いていますが、ガシガシ描いてはいません。まだまだ完成には遠い気がします。そういう制作もいいのではないかと思います。これは空想の少女二人を描いたもの

ギャラリーk GALA展にて

ギャラリー K   GALA 展について 今年もギャラリー K で新年初の展覧会 GALA 展が開かれました。オープニングパーティーにも多くの方々が集まりになり盛大にたのしい時を過ごすことができました。 その GALA 展でピンときた作品を数点紹介してみようと思います。 釜親孝太郎  大人の女性を描いていますね。色鉛筆で淡い感じで塗り込めています。おや、猫の絵も一点あります。女性像がいくらか不気味なところもありますが、なにか他の美学でもって匂いを感じます。絵のマターは匂いが実際するわけではありませんが、やはり匂いがします。絵から発する匂いなのでしょう。美しいとかではない。なにかわれわれがいだく一般的な美ではない。異質なにおいの美、そして醜があってそれが独自の美を醸し出している様子がうかがわれます。釜親さんは異質な美を発表してわれわれに問いかけているのだった。 宮崎聡子 猫の絵だ。かわいい猫だ。猫と言ってもリアルなよくある写真のような絵ではない。かわいい客たーにしてマンガのようにして親しみやすいフォルムにして猫が平和を訴えかけている。戦争とかを世界から無くそうというそういう意味を込めた願いの絵であることであります。オリジナルにしてオリジナルだからこそ個性を出していける。オリジナルで勝負できるのはとても自信の要ることです。猫のキャラクターかわいいなと思い、愛玩しながら、目でかわいがって、そうしたら、そのかわいらしい猫が戦争やそういう世の中のネガティブな事はいけないことだよ。なくしていこうと訴えかけている。戦争で死んだ子猫を猫が抱いて訴えている絵。 山崎智嗣 細かい線、精密機械のように、緻密、猫とキノコの怪奇を描いた棺のような額に入っている絵。猫にキノコ、少女のような少年、少年のような少女の子どもが描かれている。そのシリーズが4点の額の棺に納められている。絵自体はあまりに完成度が高い。まったく手を抜いていない仕事、あまりの緻密さ、制作にかなりの時間がかかっているだろうという絵である。しかも、何度も言うが額の棺に絵は納められている。怪奇趣味と少女趣味、そしてかわいい猫、今回の作品は雨や闇が描かれている。絵において雨を描いたり闇を描くのは普通の晴れた日よりむずかしいし、色の技術、表現力においてもかなりの技

無の生き方に近い

何も優劣を決める必要は無い。すぐれているものになれなかったわたしが言うのだからそうなのだ。 しかし、劣った者はやる気さえあれば下剋上もあるだろう。 僕はその勝負を放棄している。もう、なにも戦うなにかもない。 つまり無だ。無にいたってしまった。こうした、文章を書いていると、優れた者はわたしをただの劣った者の遠吠えだと思うだろう。 その、試合、自主退場してしまえばその勝負はしようもない。 つまり、僕は自由人なんだな。 自由人に何言っても戦闘モードにならない。戦おうとしても戦ってくれないのだから。 むしろ、戦闘系の者にとってはやっかいだ。試合をしてくれないのだから。 これぞ、下剋上かもしれない。戦わないものが勝つこともあるが、そこに優劣は無い。 これは何を言いたいのかというと、あまり他人の挑戦に、または挑発に乗らないことだ。もし、その挑発に乗ると利益が奪われる。お互いにね。 できれば、チャンスを見て、漁夫の利を得る方がいい。傍観も大事な時もある。でも、時代は行動した者に恵みが与えられる。 いつの間にか、結果を出せればいいのです。 人生で大事なことは、 1、生きる力 2、天運 3、流れにまかせる ことです。あまり無理しないことだね。自然にまかせた方がいいよ。でも、生きる力は重要だ。日々、懸命に生きて生活して仕事してやっていればいいのですよ。それで天運がついてくるし、天もそんながんばっているあなたに何か感じてくれるかもしれない。それで、日々懸命にやって仕事して給料をもらい、流れにまかせていれば何となく僕の人生これでよかったんだなと、のほほんと生きていればまあ、平和だなと思ってしまう。 満足してしまいますね。 若い人はそうはいかないかもしれない。若い人はどうしてでも運命を切り開こうと熱心にがんばるからね。それは止めないよ。がんばりまくってください。 僕は、若い人はすばらしいと思います。夢をもっている人はすばらしいと思います。

やないふみえの個展をみての展評(ドラードギャラリーにて)

やないふみえ個展 ドラードギャラリーにて あれは夏の暑い日、僕は電車にゆらてれ早稲田をめざした。ペットボトルの茶を飲み水分補給しながら、ドラードギャラリーをめざした。暑くてしかたなかった。 やないふみえ画伯の絵を見に行くのであった。 早稲田につき、徒歩であるき、道に迷う。おまわりさんに道をたずね、ようやくドラードギャラリーを発見した。 絵を見た。 かなり手をかけている。一見まったく手を抜いていない。丁寧な仕事、丁寧な筆使い、これは女性作家のなせる技なのか。作者に聴くと臆病だからどうしても完成度が高くなるようなことだった。 絵を見た。 動物の絵で、さまざまな明るい色で童話の世界を展開している。そのやないふみえさんの個展会場にいるだけで別世界である。夢を見させてくれる。夏暑い日であるが、来てよかったなと思うようになった。いやしかしまったく手を抜いていない。絵自体はマルク・シャガールのような夢の世界だ。面白い、たのしい、そんな感情が目から伝わってくる。これは感動か。そうなのかもしれない。 童話の絵である。童画といってもいい。絵本の世界がひろがってくる。そして、色彩も美しい。本当意にシャガールの後継者なのかもしれないと思った。夢をみているようだ。 他のお客さんもその夢の世界に心酔しているようだった。そのお客さんの鑑賞者とわたしとやないさんで話をして、絵のことを話した。お客さんの人はこれがいいとある作品を凝視していた。やないさんはいろいろ話を聞きだして絵の説明をした。僕はただ聴き、他の絵を見てたのしんでいた。 最高の時間だった。 展覧会場に一時間はいたであろうか。すごいたのしかった。鑑賞者のお客さんはお気に入りの絵を購入していた。そうとう気に入りよろこんでいた。何でも家にいる子どもにも見せてあげたいということもあったそうだ。あと、そのお客さんの子供がイラストレーターを志しているらしくてその教育のためでもあったようだ。 僕は、いくらか満足してギャラリーを出た。 暑かったこともわすれ作品の余韻に浸っていた。そのとき、個展で人を感動させることも重要なんだなと思ったよ。 ただ、展示して売るだけでなく、展覧会場を夢の世界に変えるやないふみえさんの絵の魅力はすばらしいものだ

文筆はけっこうたいへんだな。そう感じました。

なにか問題のある人は幸せかもしれない。それを解こうと必死になって表現したり、必死になる。知能も繰り出して、懸命になれる。 若い人はその情熱でもってなにか人生を変えていける力を放射する。それはものすごいエネルギーだ。 タイピングが重い。 進まない。 でも、演奏しきるつもり、キーボードってピアノみたいな気がします。演奏しているんだね、言葉という音色を奏でているのだね。 川端康成っていう小説家がむかしいたのだけど、あの人は原稿用紙に一日一行進めばそれで喜んでいたそうだ。それで友人の小説家、横山利一に電話して「今日一行だけど進んだ」って話して横山利一もそこそこ進んだとかで喜んでいた。 たしかに、川端先生のような質の高い文章を一行進むのはすごいことだ。僕では川端さんの一行におよばないのは明確だし、わかる。 もう、やり終えたのか。僕の人生の課題。 文において何か書くことがなくなっている。でも、書くけどね。すごい思想とか出せない。 ひらめき、そんなもの、若いころは天才であっても二〇歳過ぎればただの人っていう言葉があるけど、それかもしれない。いわゆる文章を書く人として燃え尽きてしまったのだろう。書きたいことは書いてしまった。それでかなりすっきりしている。 あとはゆったりたのしんで文筆の趣味を続けていけばいいんだね。そんな気もするよ。 明日は映画でも行こうかな。映画はいいよね。まっくらな空間でゆっくりすわって目の前のスクリーンを見てゆったりできるから。寝てもいいのだからさ。 演劇とかはハラハラするけど、映画はもう失敗と無いから安心して観れる。 演劇はハラハラするところがあっても上手く乗り切る役者の演技技術があるからいいのかもしれない。舞台には華もあるし、緊張感もある。茶飲みながらは見れない。真剣に、真摯に舞台をみるからいいのか。 映画はゆったりできるからいい。 すっきりもする。 疲れもとれる。 私は文筆家に向かない。プロでやっている人は化け物だ。すごい執筆量だ。そのようになれない。一日で二万字も書く人もいる。僕なんかは休日に一時間三〇分 PC に向き合うだけで限界だ。あと、平日であれば一五分くらいのルーチンの文筆だけだ。 とても文

今年、この年もマイペース更新します。よろしくお願いします。

新年がやってきまして、もう、日々がはじまりましたね。 私の課題としているアートのことにもいくらか思考を進めている感じです。昨日だったか画家の友人から連絡があり、画家っていうのは瓦乞食みたいなものだと言っていた。そうかもしれない。だが、それでも生きて行かねばならないのが現状であります。 私も制作を始めました。 B1 サイズの絵を描いています。こうして文もやっています。 絵画展に行くってのはやっていませんね。 来週にはギャラリー K で GALA 展が始まります。今年初の展覧会ですね。 展覧会に出品するのは遊びという側面もあるし、趣味でもあったりします。絵を描くのもなっていうかダラダラやっています。 でも、本業の方の仕事は一生懸命にやっていますよ。 別に暇じゃない。 絵は何を見たか。今年、まだ名画をみていない。自分の部屋に飾っている絵ぐらいしかみていない。それでも楽しいけどね。自室に展示されている絵は特別のお気に入りだから、仕事の疲れとかを癒してくれる。ありがたい美術品でもあります。 今日は実は昼から初モーデです。けっこうたのしみですね。 なにも書くものがなくなったのだろうか。この前、去年の年末に電子書籍を一冊、個人出版して抜け殻になったのか書くことが無い気がしてしまう。 あと、僕は今後はアフターストーリーを生きる感じですね。 もう、あまり頑張りたくはないのですね。それはそれでいい感じだ。すっきりしている。 やることと言えば、絵画制作、書、くらいなのかな。 遊びに生きる。これが大事だね。人生は遊びと定義してもいい。 今、手記集を書いていますが、なかなか毒のある本になりそう、基本、僕自身が毒舌でネガティブ思考を乗り越えようとしている修行文集なんだけど、本の執筆は本の内容を育てる感じがします。 「画論」を企画しています。そんな本の計画を考えています。体力に余力があるなら書いてみたいけど、書くのは厭だって感じもする。 休日の朝、喫茶店でコーヒーとケーキやりながらの雑文の執筆はたのしいものがありますね。僕のできる表現であると言えますね。 盲目の人は光を求めて手探りで光をゲットしようとする。それが青春だ。高校生であれば甲子園と